新がつく駅地図手帖

新西春別駅(廃駅)


最終更新: 2022/03/12

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新西春別(廃駅)しんにししゅんべつ西春別(廃駅)北海道
開業*開業年クリックで、
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1936年1952年

▼この駅を走っていた路線 

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(不定)簡易軌道西別線×殖民軌道

▼備考 

当駅(当停留所)周辺は、ほぼ南北に伸びる国鉄標津線(しべつせん)の西春別駅(後述)を中心に市街地が形成され、開拓が進められた。更に、当駅周辺からは西へ向かう簡易軌道虹別線(にじべつせん)と、東へ向かう簡易軌道西別線(にしべつせん)があり、これらも開拓に使われた。当駅周辺のかつての地図が、1970年代 北海道鉄道写真に載っている(敬称略)。 殖民軌道(後に簡易軌道)は、北海道の開拓の為に敷設された軌道線。動力は初期は馬、後にディーゼル車(ガソリンカー)が使われた。特に、当駅一帯に広がる根釧台地(こんせんだいち)周辺はその中心的な舞台で、幾つもの殖民軌道が敷かれた。北海道の開拓は明治時代から進められてはいたが、根釧台地周辺では、この地域特有の貧弱で過酷な交通事情が開拓を滞らせていた。明治時代の道路はまだ未舗装が当たり前だった上、火山灰・泥炭が主な地質も災いし、地面凍結や雪が解ける時期になると、地面がぬかるんでろくに移動できなかった。その打開策として、ぬかるむ事の無いレールは開拓に大いに役立った。こうして殖民軌道は開拓民の足となり、牛乳などの貨物輸送も担った。 但し、当駅周辺には元々、殖民軌道は通っていなかった。というのも、「西春別」という地名は本来、ここから南東へ4kmほど離れた場所にある別の市街地の事を指し、ここには当駅も殖民軌道も国鉄も何も無かった為。開拓初期も当然、殖民軌道は離れた方の本来の西春別を通っており、本来の西春別市街には殖民軌道の西春別駅が既にあった。 しかし、1936年になると、本来の西春別から北西へ離れたこの場所に、国鉄の西春別駅(標茶線、後の標津線の駅)が出来た。それによって殖民軌道も国鉄西春別駅前まで伸び、この時当駅も誕生した。当駅は国鉄西春別駅の東側に隣接し、乗換駅となった。国鉄が本来の西春別市街から離れた場所に無理やり同名の駅を作った事になるが、殖民軌道の本来の西春別駅は特に改称されず、代わりに当駅が「新」を冠する事で殖民軌道内では区別された。当駅は当初は殖民軌道の「上春別線」の駅だったが、最終的には「西別線」の西端の起終点駅となった。 ※本来の西春別市街と国鉄による西春別市街は、周辺の学校名の区別からも見て取れる。本来の市街地にある小中学校は「西春別」を名乗る一方、国鉄による市街地の小中学校は、「上西春別」を名乗っている(上西春別小学校など)。 西別線は、当駅を南東へ出ると、上記の本来の西春別市街を経由してから、遥か東の方の西別駅(後述)まで伸びた。一方、当駅周辺からは逆方向に、西の方の虹別市街へと伸びる「虹別線」という別の殖民軌道もあった。虹別線の駅は、国鉄と同じ「西春別駅」を名乗った。 殖民軌道は国鉄の標津線の無い時代から根釧台地一帯の開拓を担っていたが、後からより高規格な標津線が開通すると、殖民軌道は標津線の各駅を起点として伸びる路線網へと再編され、標津線とルートの重複する殖民軌道については廃止もされた。標津線開通後は、殖民軌道と標津線が連携して開拓を支える事になった。当駅周辺も標津線の駅前市街として賑わうようになり、本来の西春別市街よりも都会になった。 ※国鉄の標津線は、ここから遥か南西の方にある釧網本線の標茶駅から分岐し、当駅隣接の西春別駅や、計根別駅(けねべつえき)、中標津駅などを経由して、現在の標津町の中心にあった根室標津駅まで伸びていた。更に、途中の中標津駅からは南へ、春別駅、西別駅(後に別海駅)、奥行臼駅などを経由して根室本線の厚床駅(あっとこえき)へ至る「厚床支線」も分岐した(標津線の一部)。まず1933~1934年にかけて厚床支線部分が「標津線」として開通し、その後1936~1937年にかけてそれ以外が「標茶線」として開通。1937年の全通後、全体を標津線とした。 戦後も各軌道の運営は続いたが、殖民軌道は衰退期へ入った。戦後は「簡易軌道」へと改称され、運営形態も再編されたというが、1950~1970年代に入ると、周辺の道路整備が進んで急速に役割を失い、廃止が進んだ。西別線の廃止は特に早く、1952年には当駅側が部分廃止され、1956年には残りの西別駅方面も全線廃止。国鉄西春別駅を挟んで反対側にあった虹別線も1954年に廃止された為、周辺の鉄道は国鉄の標津線だけとなり、簡易軌道は消滅した。 しかし、最後まで残った標津線も、その後国鉄の赤字路線として衰退。1987年以降はJR北海道の標津線となったが、2年後の1989年に廃線。標津線は中標津駅の利用客こそ多かったものの、中標津の周囲360°があまりに過疎地域で陸の孤島だった上に、更なる過疎化と車社会化も進んだ為、全体は赤字だった。こうして、当駅跡周辺の鉄道は遂に完全消滅。しかし、周辺は国鉄標津線の西春別駅前市街だった名残で、今も「西春別駅前○○」という地名が残る。また、国鉄西春別駅跡地には別海町鉄道記念公園や鉄道記念館も出来た。 ※周辺は今、別海町(べかいちょう)となっているが、「別海」や「西別」という地名には複雑な経緯がある。本来、「別海」とは根室湾に面した海沿いの地域を指す地名で、当駅含む内陸部は「西別」という別の地名で呼ばれていた。しかし、1923年の合併で西別村が別海村の一部となり、1933年には村役場を標津線の西別駅付近(内陸部)へ移転。1971年には別海町となった。1972年になると、紛らわしい事に、本来の海沿いの別海を「本別海」(ほんべかい)、町役場付近の西別を「別海」と改称。それを受け、標津線の西別駅も1976年に「別海駅」(べかいえき)に改称された。元々「べつかい」「べっかい」の2つの読みが混在していたが、この混在は町名と駅名にも現れた。正式町名は上記の通りだが、現在は「べっかいちょう」の読みも認められている。 ※周辺には巨大な格子状防風林が広がり、これも開拓を物語る。また、YouTubeには簡易軌道の解説動画もある。

▼関連写真 

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