新がつく駅地図手帖

新山内駅(廃駅)


最終更新: 2021/04/17

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新山内(廃駅)しんやまうち山内(廃駅)新潟県
開業*開業年クリックで、
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1963年1984年

▼この駅を走っていた路線 

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日本国有鉄道(国鉄)赤谷線×普通鉄道

▼備考 

赤谷線にあった駅。赤谷線には鉄鉱石の貨物列車(後述)も走ったが、当駅は旅客駅だった。当駅は赤谷線の中では後発の駅で、新江口駅と共に後から新設された。 赤谷線(あかたにせん)は、かつて新発田駅から出ていた路線。途中、新江口駅や当駅を通り、ここから南東の方にある赤谷駅・東赤谷駅へと続いていた。当駅の南隣が赤谷駅で、そこから先は山深くなっていった。終点の東赤谷駅よりも更に山奥へも鉱山鉄道が伸び、赤谷線はその鉱山とも連携して鉄鉱石を運ぶ役目も担っていた。線路はおおよそ加治川(かじかわ)に沿っていて、鉱山もその上流部付近の山中にあった。東赤谷駅は、赤谷線としては終点だったが、国鉄としては唯一のスイッチバック先の終着駅としても知られていた。 元々は、南東の山奥にある鉱山(赤谷鉱山)で採れた鉄鉱石を官営八幡製鉄所へと運ぶために、1920年(1922年の説もあり)に新発田~鉱山間に鉄道が敷かれたのが始まりだという。当初のその線路は製鉄所専用の貨物線(農商務省製鉄所専用線)だったが、その後八幡製鉄所が国内ではなく中国の鉄鉱石を使うように変更されたため、すぐに放置されてしまった。しかし、この線路を旅客線として使いたいとの要望が沿線の地元民から出されたため、放置された線路の一部を再利用して復活させ、まず1925年に新発田~赤谷間が開通したのが赤谷線だった。しかし、末端の赤谷~鉱山間は線路が撤去され、路盤などは依然として放置された。 その後、1931年の満州事変を皮切りに、第二次世界大戦へと続く戦争の時代に突入すると、国内で鉄鉱石を産出する必要性から再び赤谷鉱山の重要性が上がり、赤谷止まりだった線路は再び鉱山へと伸ばされた。1941年に、赤谷線の赤谷~東赤谷駅間が延伸。更にその先の山奥の鉱山への線路も再び敷かれ、東赤谷~赤谷鉄山間は日鉄鉱業の赤谷鉱山専用鉄道(赤谷鉱業所専用鉄道)となった。実際に赤谷鉱山は戦中に多くの鉄鉱石を産出し、この専用鉄道と赤谷線を経由して鉄鉱石が運搬された。 終戦を迎えると、赤谷鉱山の産出量は一気に減ったが、その後も細々と操業は続けられた。しかし、当初の専用鉄道の線路(軌間1067mm)は、一部に洞門(スノーシェッド)などある程度の雪対策はされていたものの、冬には雪に閉ざされて使えなかったため、1956年に廃止。以降、1957~1998年の間はほぼ完全なスノーシェッドに覆われた軌間610mmの別の線路(トロッコ)に切り替えられたが、1998年に赤谷鉱山自体が閉山となり、それも廃止。つまり、鉱山の線路は新旧共に廃止されたが、初期の旧線の方は後に一部が県道335号として転用され、旧線の遺構の東赤谷連続洞門は今も通れる。戦後には周辺に加治川治水ダム(下流側)や加治川ダム(上流側)も建設され、この県道は主にこれらのダムへのアクセスに使われる。 一方、戦後も旅客線として続いていた国鉄赤谷線は、1963年に当駅を新設するなどして持ちこたえていたものの、赤字ローカル線に転落し、赤谷鉱山の閉山よりも早い1984年に廃止された。その時、当駅も廃駅となった。赤谷線の廃線跡は今、赤谷サイクリングロードや遊歩道などに転用されている。 ※趣味は鉄道には、国鉄赤谷線の営業当時(末期)の貴重な写真が載っている(敬称略、閉鎖済みサイト)。 ※新抜き駅は「やまうち」と読み、1985年まで福岡県にあった駅。今は「山ノ内駅」という駅もあるが、読みや表記が違うので新抜き駅扱いしなかった。

▼関連写真 

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