新がつく駅地図手帖

新富士駅(北海道)


最終更新: 2022/03/12

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新富士しんふじ富士北海道
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廃止
1923年- - - - 年

▼この駅を走る路線 

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JR北海道根室本線(K)普通鉄道

▼かつてこの駅を走っていた路線 

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日本製紙日本製紙釧路工場専用線×貨物
釧路開発埠頭埠頭線(北埠頭線)×貨物
釧路開発埠頭西港線×貨物
雄別鉄道鳥取側線×貨物
雄別鉄道鶴野線×貨物

▼備考 

駅番号K52の、根室本線の駅。当駅の敷地内には同名の貨物駅もあったが、貨物駅の駅名は2011年に「釧路貨物駅」に改称された。 「新富士」という駅名は、富士製紙という社名が由来だという。由来となった富士製紙の製紙工場は、当駅すぐ北東の新釧路川(当初は阿寒川、後述)沿いにあった。この製紙会社は最終的には日本製紙の一部となり、その製紙工場も「日本製紙釧路工場」となった。その工場はその後も長い間、つい最近まで稼働を続け、工場建設から約100年を迎えていたが、近年の紙の需要の低下と、某ウイルスによる急激な紙依存脱却の動きをもろに受けてしまったため、2021年8月に遂に閉鎖(PDF)されてしまい、当駅名の由来となった工場は遂に失われる事になった。この工場撤退は、ただでさえ衰退しかけている釧路市にとって大きな打撃で、地元では閉鎖に反発も起こった。ただ、同じ工場内で製紙以外の事業も行っているらしく、それは撤退後も続けるという。 昔は当駅から、貨物専用線も幾つか分岐していた(雄別鉄道や釧路開発埠頭の貨物線など)。当然ながら、上記の製紙工場への貨物専用線も1984年まで存在した。 分岐していた貨物線のうち、釧路開発埠頭の西港線については、当駅から南西方向に分岐してカーブする廃線跡が上図の航空写真でも見て取れる。元々当駅のすぐ南側には海が広がっていたが、戦後の釧路港の西港区の建設によって埋め立て地が出来たため、海岸線は南へ遠のいた。元々釧路港は釧路川の河口付近に古くからある東港区のみだったが、戦後の発展期に釧路港を西へ拡張する事になり、西港区が生まれた。それと共に、西港区へ伸びる貨物専用線として西港線が開通していた。また、釧路開発埠頭の埠頭線は、当駅から暫く根室本線に沿って東へ進み、新釧路川(後述)対岸の東港区にある北埠頭へと伸びていた。埠頭線は元々雄別鉄道の路線だったが、雄別鉄道末期に釧路開発埠頭へと譲渡されていた。 雄別鉄道の鳥取側線鶴野線はいずれも、釧路駅・新釧路駅経由の雄別本線の途中から分岐して、当駅と雄別本線を結ぶ役割を果たしていた線路。鳥取側線は当駅を西へ出ると一気に大きく急カーブして北東へ向きを変え、雄別本線との合流地点だった雄鉄昭和駅まで伸びていた。しかし、鳥取側線は1968年に廃止され、代替として新たに鶴野線が建設された(つまり、両路線は同時には存在していない)。鶴野線はカーブもましになり、うんと北西の方の鶴野駅で合流した。しかし、1970年に雄別鉄道自体が廃止されたため、鶴野線は短命だった。両路線の位置関係は、DRFC-OB デジタル青信号に掲載の画像が分かりやすい(敬称略)。 ※1929~1967年の間には、当駅北側に鶴居村営軌道の新富士停留所もあった。 ところで、当駅西隣には新大楽毛駅もある。東隣は、釧路駅。また、静岡県にも同じ名前の駅があるが、当駅とは無関係。 ※新釧路川は、釧路市街地のど真ん中を突き抜けていた釧路川への洪水対策として、1931年に完成した(初代)岩保木水門(いわぼっきすいもん)から真っ直ぐ分岐させて新たに掘られた流路。新釧路川は上記の製紙工場のすぐ東の脇を流れるように掘られたが、この製紙工場は新釧路川が出来る前からあり、1920年7月に富士製紙の製紙工場として操業した当時は、そこに阿寒川(阿寒新川)が流れていた。阿寒川は大昔の1917年以前、後に新釧路駅が出来る場所辺りで釧路川へと直接流れ込む支流だったが、阿寒川が釧路港に土砂を堆積させる原因となっていたため、阿寒川は1917年に釧路川から切り離され、ちょうどこの付近で直接海へと流れ込むように流路変更された。1917年以降のこの新流路は「阿寒新川」とも呼ばれ、富士製紙の製紙工場はこの阿寒新川沿いに建てられた。しかし、工場が建ったほんの翌月の1920年8月に起こった大洪水によって、阿寒川はより西側の大楽毛付近で海へ流れ込む川へと変貌し、阿寒新川含む付近の阿寒川は本流から分離した。工場沿いの取り残された流路は「旧阿寒川」と呼ばれるようになり、富士製紙時代の工場周辺の地図にも「舊阿寒川」(「舊」は「旧」の旧字)の記載が見られる。後に、この旧阿寒川の流路を活用して、新釧路川の河口部が造られた。また、旧阿寒川の流路のうち新釧路川に活用されなかった部分は、仁々志別川となっている。

▼関連写真 

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