新がつく駅地図手帖

新田駅(山形交通・廃駅)


最終更新: 2023/08/14

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新田(廃駅)しんでん山形県
開業*開業年クリックで、
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1926年1974年

▼この駅を走っていた路線 

運営会社*虫眼鏡クリックで、
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種別*種別名クリックで、
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山形交通三山線×普通鉄道
山形交通三山線×貨物

▼備考 

かつてここにあった、山形交通三山線の駅。山形交通三山線(さんざんせん)は、かつて羽前高松駅から西へ出発し、当駅を経由後、寒河江川(さがえがわ)に沿って間沢駅(まざわえき)まで伸びていた路線。当駅は、三山線において羽前高松駅から1つ目の駅だった。路線名から分かる通り、「三山」はここから北西の方にある出羽三山(でわさんざん)の事を指し、そこへの参拝客も多く利用した。出羽三山は古くから出羽国で続く山岳信仰の霊場で、月山(がっさん)・湯殿山(ゆどのさん)・羽黒山(はぐろさん)の総称。 三山線は出羽三山への参拝客含む旅客輸送の他、沿線の鉱山操業による貨物輸送をも担うべく、1926年に開業した。開業当初は三山電気鉄道という会社が運営し、その頃は電車を走らせる為の電力を寒河江川周辺の水力発電所で充分賄う事ができた為、経営は順調だったという。更に、1936年には谷地軌道という別の会社のバス事業も買収する程余裕があった。好調を受け、鶴岡への延伸が話に上る事もあったらしい。鶴岡は出羽三山を挟んだ向かいにあり、延伸すれば鶴岡からの参拝客も確保できたかもしれない上、山形と鶴岡の都市間輸送をも担えた可能性があるが、地形が過酷な為か延伸は実行されなかった(出羽三山のうち羽黒山だけは三山線から遠く、鶴岡からの方が近い)。 その後時代が進んで戦争の時代に入ると、三山電気鉄道は戦時統合によって山形県内の他の鉄道会社やバス会社と合併し、山形交通の運営となった(1943年)。合併相手の他の鉄道会社として高畠鉄道(たかはたてつどう)と尾花沢鉄道(おばなざわてつどう)があり、これらも合併により高畠線尾花沢線となった。 三山線は戦後も暫くは好調で、鉱山の貨物輸送の他、出羽三山へのスキー客も多く乗車したという。しかし時代が進んで1970年代に入ると、鉱山が閉山したり自動車に押されたり(モータリゼーション)した事で、経営が苦しくなった。状況は山形交通の他路線でも同じであり、1970年には尾花沢線が、1974年には三山線と高畠線が廃止され、山形交通の鉄道線は全滅。会社としての山形交通はその後もバス会社として存続し、蔵王温泉のロープウェイなども営業したが、1997年にはバス事業も子会社の「山交バス」へと分社化し、自身は「(株)ヤマコー」へと改称。新社名は、略称として馴染みのあった「山交」を片仮名にしたもの。また、ロープウェイの営業も、2014年に手放した。 廃止後の当駅は潰され、東北電力の変電所の敷地になってしまっている。一方、ここからすぐ南東の方(当駅跡地の羽前高松駅寄りの端っことされる)には、「三山広場」という、三山線を偲ぶ記念広場がある。当時の橋脚が保存されている上、脇には当時の写真を載せた掲示物や案内看板もある。 ※ただ、2023年6月現在の三山広場を写したストリートビューによると、看板はあるものの、屋根の下にあったはずの掲示物が全滅してしまっているように見える。 鈴木写真変電所津島軽便堂写真館には、当時の三山線を写した貴重な写真などが載っている(敬称略)。また、廃線跡は歩鉄の達人が詳しい(敬称略)。 ※ちなみに、羽前高松駅は左沢線の駅。路線名は「あてらざわせん」と読み、難読。左沢線は北山形駅で奥羽本線から分岐し、付近まで伸びてくる路線で、山形駅まで直通する。「フルーツライン左沢線」の愛称もある。

▼関連写真 

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