新がつく駅地図手帖

池上新田駅(川崎市交通局・廃駅)


最終更新: 2024/07/07

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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池上新田(廃駅)いけがみしんでん神奈川県
開業*開業年クリックで、
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1951年1969年

▼この駅を走っていた路線 

運営会社*虫眼鏡クリックで、
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種別*種別名クリックで、
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川崎市交通局川崎市電×路面電車
川崎市交通局川崎市営トロリーバス×トロリーバス

▼備考 

ここに最初に線路が通ったのは、1945年に東急大師線(現・京急大師線)の線路が川崎大師~小島新田~入江崎方面から桜本駅まで延伸された時。当初はまだここに駅は無かったが、戦後の1951年になると、大師線の線路と川崎市電の線路が桜本駅で出会って繋がったのを機に、ここを川崎市電の電車が通るようになった。この時、当停留所も開業した。更に、同年には川崎市営トロリーバスの池上新田停留所も開業している。 当停留所は大師線の桜本~入江崎駅間に開業したが、桜本駅は当停留所から非常に近く、ここから南西へほんの百数十m程度しか離れていなかった。今昔マップ(敬称略)に収録の1965~1968年の地図でも当停留所を見る事ができるが、停留所名こそ書かれていないものの、近い位置に2つの停留所記号が並んで描かれているのが分かる。左側が桜本駅(川崎市電化後は桜本停留所)、右側が当停留所。 当初はあくまで、京急大師線の線路に川崎市電が直通するという形態だったが、翌年(1952年)には桜本~当停留所~入江崎~塩浜間が大師線から川崎市電へと譲渡され、完全に川崎市電の区間となった。しかし、時代の流れと共に川崎市電・川崎市営トロリーバス共に経営難となり、トロリーバスは1967年、川崎市電は1969年に廃止されてしまった。当停留所跡周辺には、かつての廃線跡が小道として残っている。 川崎市電は、川崎駅前から走って来る路面電車だったが、当停留所周辺は元が大師線だっただけあって、産業道路の海側に新設された専用軌道だった。夜には軌間(レールの間隔)の狭い国鉄の貨物列車がここを通過し、そのためにレールが3本並んでいた(三線軌条)。京急大師線が小島新田付近で分断される1964年までの間、川崎市電と京急大師線は線路が繋がっていたので、はるばる京浜川崎(現・京急川崎)~(大師線)~小島新田~塩浜~入江崎~池上新田~桜本~渡田新町~川崎駅前へと、長大なレールが続いていた。但し、運行はあくまで塩浜駅で分断されていたため、直通は無かった。その当時の付近の川崎市電の様子は、40年前の鉄道風景の貴重な写真で見ることができる(敬称略)。 ※ここに当停留所が出来るようりも更に昔には、付近(現・産業道路になっている道路上)を海岸電気軌道が通っていたが、それは1937年にとっくに廃止されていた。海岸電気軌道側にも同名の池上新田停留所があったが、当停留所よりも北東にあった。 ※戦時中の東急は通称「大東急」と呼ばれ、現在の東急・京王小田急・京急・相鉄にあたる路線全てをその会社1つで運営し、牛耳っていた。その発端は1942年の合併で、東急の前身である東京横浜電鉄と、京急の前身である京浜電気鉄道、更に小田急電鉄の3社が合併し、社名を行電鉄(略して東急)としたのが大東急の始まり。そもそも合併直前の時点で、この3社共に同一人物の五島慶太が既にそれぞれの事実上の社長を務めていたため、合併はスムーズに進んだ。五島慶太は東急の創業者にして実業家だったが、そのバックには、当時制定された陸上交通事業調整法も絡んでいた。当時の日本では、戦争に専念するためには日本中に多くの私鉄がバラバラに乱立している状態は避けるべきで、鉄道会社をなるべく1つにまとめておいた方が効率的とされた(戦時統合)。しかし戦後になると、元々別会社だったそれぞれの鉄道会社が分離独立を求め、大東急は解体(1948年)。その時、東急大師線も京急大師線となった。 ※戦時統合は関東地方だけでなく全国各地で行われ、例えば静岡鉄道富山地方鉄道京阪神急行電鉄北陸鉄道ことでん山梨交通山形交通三重交通西日本鉄道なども、この戦時統合によって誕生した。鉄道のみならずバスやタクシー会社も交通会社の一種としてひとまとめにされ、「○○交通」を名乗る会社もいくつか誕生している。 ※大東急解体後も長らく「東京急行電鉄」という社名はそのままだったが、これは2019年9月に「東急」(株)へと改称された。翌月には、親会社の「東急」から鉄道事業が切り離され、現在は子会社の「東急電鉄」(株)が担当する形に再編されている。

▼関連写真 

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