新がつく駅地図手帖

新千歳町駅(廃駅)


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▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新千歳町(廃駅)しんちとせまち(?)大阪府
開業*開業年クリックで、
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1927年1967年

▼この駅を走っていた路線 

運営会社*虫眼鏡クリックで、
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種別*種別名クリックで、
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大阪市交通局大阪市営電気鉄道(大阪市電)三軒家新千歳線(28系統)×路面電車
大阪市交通局大阪市営電気鉄道(大阪市電)鶴町線×路面電車

▼備考 

大阪市電の三軒家新千歳線(さんげんやしんちとせせん)と鶴町線の駅(停留場)だった。「新千年町」とも書いたらしい。 現在ここはになっているが、当時は陸地だった。1947年頃の航空写真にも、当時の陸地が写っている。当停留場は交差点にあり、市電の通る大きな道路だけを見ても三差路、小さな道も含めると五差路になっていた。主に東西を走る大きな道路には鶴町線、北東からここへ斜めに入って来る道路には三軒家新千歳線が走っていた。この2路線はここで接続した。 ただ、1955年になると、陸地だったこの辺りを大きく削り、大正内港(たいしょうないこう)という大きな港が造られた。これにより、ここは市電どころか陸地もろとも無くなり、この停留場は廃止。各路線のうち港の新設の影響を受けなかった部分は存続したが、1967年には各路線の残りの区間も廃止されている。※ただ、こう書くと当停留場は1955年に廃止されたかに思えるし、実際にこの場所は1955年に海になっているのだから、この場所の当停留場は確かに1955年に廃止されたはずだが、この時当停留場は廃止されず、移設された上で最後まで残っていた可能性もある。これについては後述。 今、この辺りには千歳橋という大きな青い橋が架かっている。元々陸地だった時代にも同名の小規模な橋があったというが、大正内港の出来た後暫くは橋すら無くなり、千歳渡船という渡し船が新設された。時代が進み、2003年になると現在の大きな青い千歳橋も開通している。ここからすぐ北西の方には尻無川も流れていて、千歳橋やなみはや大橋周辺がその河口とされる。周辺には他にも水門など大きな港湾施設が多く建設され、今となっては市電の走っていた頃の面影は無い。 ※鶴町線で当停留場の西隣は鶴町四丁目、東隣は欅橋、その先は小林町だった。しかし、大正内港が開削され、この場所の当停留場が廃止された5年後(1960年)には、鶴町四丁目は「鶴町車庫前」に改称され、終着駅となった。陸地が無くなったのは鶴町四丁目(鶴町車庫前)~当停留場~小林町間で、この区間が廃止となった。しかし、廃止前にこの区間を走っていた系統についてはネットに情報が見つからず、データには鶴町線の系統番号を載せていない。ただ、三軒家新千歳線経由の28系統だけは情報が見つかったため、載せている。調べていると、問題の鶴町四丁目~当停留場~小林町間が既に無く、28系統のみの行き止まりとなった当停留場が描かれた路線図が見つかる事がどうも多い。また、当停留場は大正内港によって1955年に廃止されたかに思えるが、資料によっては1967年まで存続したとの記述も多い。この事から推測すると、恐らく大正内港の開削後も、当停留場は陸地の残る北側へ移設された上で、縮小した三軒家新千歳線(28系統)の終着として暫く残り、1967年まで存続したと思われる。ただ、当停留場を移設したとする記録が見つからないため、詳しい事は分からない。 ※今昔マップ(敬称略)に収録の1927~1935年の地図で、ここにあった頃の当駅を見る事ができる。これを後の時代の地図へと切り替えていくと、1967~1970年の地図に、移設後の当駅と思われる記号が北東(右上)の方に描かれている(1961~1964年の地図は欠損)。 ※当電停名の「町」は、「ちょう」と読む資料と「まち」と読む資料が混在している。上記の今昔マップ(敬称略)は「まち」としているため、当サイトではそれを採用しているが、インターネット上にはこれを「ちょう」と呼んでいる資料もある。 ※函館市電(北海道)には「千歳町」という停留場があるが、上記に従うと「町」の読みが異なる上、当駅とは直接の関係は無い。また、大阪市電には他に、梅田新道駅などもあった。

▼関連写真 

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