新がつく駅地図手帖

新佃島駅(廃駅)


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▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新佃島(廃駅)しんつくだじま東京都
開業*開業年クリックで、
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1923年1972年

▼この駅を走っていた路線 

運営会社*虫眼鏡クリックで、
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種別*種別名クリックで、
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東京都交通局都電月島線(23系統)×路面電車
東京都交通局都電月島線(9系統)×路面電車
東京都交通局都電月島線(臨時30系統)×路面電車
東京都交通局[直通]都電月島線(11系統)×路面電車

▼備考 

位置は推測。かつて、月島や佃にも都電が走っていた。この電停(停留所)には主に、都電の23系統が停車した。電停名に「新」が付いたのは、付近の地名が「新佃島」だったため。 江戸時代、周辺にはおおよそ現・佃1丁目の南半分に相当する「佃島」と、北側一帯に広がるやや大きな「石川島」の2つの島に分かれていた。佃島は小島とも言うべき小さなもので、今は住吉神社や佃小橋がある辺り。大坂(現・大阪)の佃から移住してきた漁師が故郷と同じ名前を島に付け、下町を形成した。石川島は、徳川家の家臣のいた石川家が島の土地を幕府から借りてそこにお屋敷を建てた事から、そう呼ばれた。一方、当電停の場所はまだ海だった。 しかし、これら2つの島は、江戸時代のうちに埋め立てや洲の自然形成によって徐々に広がっていき、遂には地続きとなって繋がった。江戸中期には、石川島には人足寄場(にんそくよせば)という更生施設も出来ていた。 幕末に入ると、佃島は相変わらず下町だった一方、石川島には水戸藩が「石川島造船所」という造船所を建設した。それがきっかけで石川島は工場の島へと姿を変え、その後長らく工場の島としての歴史が続いた。石川島の造船所は後の時代に豊洲に移転したが、造船以外の工場は引き続き石川島に残った。 明治時代に入ると周辺の埋め立ては更に活発になり、1896年には、小さかった佃島が埋め立てで一気に南東へと拡張された。現在の佃2・3丁目の南側にあたる部分が埋め立てられ、この拡張部分が「新佃島」と命名された。新佃島は、佃島のみならず石川島とも地続きだったため、周辺の島々は一体化した。但し、この時点ではまだ、南隣の月島とは「佃川」という川で隔てられていた。 大正時代の1923年になると、北東側から越中島・新佃島経由の東京市電(後の都電)が開通し、この時初めてここに路面電車がやって来るようになった(これは23系統となった)。後の1947年には、勝鬨橋の経由の都電の開通によって、南側からも月島へ都電が入って来れるようになった(これは11系統となった)。但し、勝鬨橋自体は更に前の1940年に完成していた。※勝鬨橋を都電が通るようになったのは1947年12月だが、上記一番最初のリンク先では1946年と紹介されている。真相は不明だが、恐らくリンク先のミス。 23系統は、ここからすぐ南西の月島通八丁目(現・勝どき)からここを通り、北東の橋を渡って門前仲町・森下町・東両国緑町・本所吾妻橋を通って、福神橋まで伸びていた。臨時30系統は朝夕のみ運転で、本所吾妻橋までは23系統と同じルートで、そこから寺島町二丁目(現・東向島三丁目、曳舟の辺り)まで伸びていた。11系統新宿駅前を発車し、新宿三丁目・四谷見附・半蔵門・銀座四丁目・築地を通った後、勝鬨橋を渡って月島通八丁目まで走ったが、一部列車はここまで延長運転して来た。1967年以降は、11系統の行先が正式に新佃島となった(同時に、元々違う場所を走っていた9系統も、経路変更でここまで来るようになった)。しかし、勝鬨橋の都電が1968年に廃止され、9・11系統は再びここに来なくなる。1972年には、月島線自体が廃止。今は、近くに地下鉄の月島駅がある。 ところで、戦後の高度経済成長期に入ると隅田川に佃大橋が架けられたが、この時、佃/石川島と月島を隔てていた佃川の一部を埋め立てる事で、佃大橋から伸びる道路が通された。こうして、月島・佃島・石川島は全て地続きとなった。更に、反対側の朝潮大橋も遅れて開通し、それにより佃川の残りも道路として埋め立てられたため、佃川は消滅した。唯一、佃川の支流だった佃川支川という部分だけが埋められずに佃島に残され、これが現在の佃堀となっている。佃小橋は、この佃堀に架かっている。 一方、石川島にあった工場は「石川島播磨重工業」(株)という会社のものとなっていたが、1979年にその工場も撤退し、跡地には大規模再開発として大川端リバーシティ21という巨大なタワマン群が建設された。リバーシティは永代橋付近から見た夜景が有名で、周辺には公園も整備されている。再開発に伴い、当初は無かった中央大橋も架けられた。そして、石川島播磨重工業は2007年に社名を変更し、英語名の「Ishikawajima - Harima Heavy Industries」の頭文字を取った略称から、「IHI」を正式社名としている。 ※勝鬨橋には、今でも都電の架線柱が残っている(橋の一部なので撤去されずに済んだ)。跳ね橋なので、架線に工夫がされていたという。ちなみに、モータリゼーションで勝鬨橋を渡る車が増えたため、渋滞の原因になるとして、橋の開閉は1970年を最後に行われていない。

▼関連写真 

408-1.jpg

今の勝鬨橋。昔はここを、都電の11系統が走っていたという。末期には、9系統も通った。この橋は、上の地図で言うと、新佃島電停から西南西の方にある。隅田川に架かっている。【撮影日:2013/03/17】

408-2.jpg

勝鬨橋の、真ん中の部分。写真右にあるのが、今も残る架線柱の1つ。昔は、あそこに架線が吊るされていた【撮影日:2013/03/17】

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