新町駅(京王帝都電鉄・廃駅)
最終更新: 2021/08/27
▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
新町(廃駅) | しんまち | | 東京都 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止*廃止年クリックで、 同年廃止の駅を検索 |
1914年 | 1945年 |
▼この駅を走っていた路線
運営会社*虫眼鏡クリックで、 その会社を検索 | 路線*路線名クリックで、 その路線を検索 | 種別*種別名クリックで、 その種別を検索 |
| 京王帝都電鉄 | 京王線 | 路面電車 |
▼備考
昔の京王線のこの付近は、甲州街道上の併用軌道を走る、路面電車仕様の軌道線だった。
京王線は1913~1915年にかけて、調布方面から新宿方面へと徐々に開通したが、当駅は1914年に開通した部分にあった。当時の京王線は、道路上の当駅を通った後に新宿跨線橋を渡り、新宿追分駅まで伸びていた。当駅があった当時、近隣の京王線には多くの駅があり、笹塚(ささづか)~幡ヶ谷(はたがや)~幡代(はたしろ)~幡代小学校前~初台(はつだい)~代々木(後に神宮裏、西参道)~天神橋(てんじんばし)~当駅~葵橋(あおいばし)~省線新宿駅前~停車場前~新宿追分という風に駅が並んでいた。
当駅も、「駅」とは言え路面電車の「電停」とも呼ぶべき設備だった。開業当初の社名が「京王電気軌道」だった事も、それを示している(但し、後の1944年に大東急の一部となった後、1948年の分離独立後は「京王帝都電鉄」という社名に変わっている)。
しかし、道路上の併用軌道ではやはり輸送力や速達性に難があったのか、やや時代が進んで1936年になると、その一部が専用の敷地のある専用軌道へと移設され、甲州街道の往来に邪魔されずに走れるようになった。この専用軌道は、元々付近の南側一帯を東西に流れていた玉川上水の跡地を利用して通された。当初は玉川上水の脇を京王線が走ったが、後に玉川上水の上に蓋をして暗渠化し、その上を京王線の専用軌道とした。玉川上水は、多摩川から江戸へと水を引いて、江戸の水道水確保ために江戸時代に掘られた水路だったが、明治時代に建設されたより近代的な水道や淀橋(よどばし)浄水場に取って代わられ、玉川上水の新宿寄りの部分などは既に役目を終えていた。京王線は、その流路跡を利用した。
※但し、淀橋浄水場も、戦後に役目を終えて潰され、今はその跡地に新宿副都心の超高層ビル群が建っている。京王プラザホテルや東京都庁なども、そこに建つ。ちなみに、当初その周辺は「淀橋区」という区だったといい、そこで創業したカメラ屋が、後にかの有名な「ヨドバシカメラ」となっている。
当駅は専用軌道化区間から外れ、その後も甲州街道上の併用軌道にあったが、当駅付近がちょうど専用軌道と併用軌道の境目になっていて、当駅から西側が玉川上水上の専用軌道区間だった。1936年頃の航空写真には、当駅のすぐ西南西付近で甲州街道を外れ、南側の玉川上水上の専用軌道へと入る線路が写っている。
付近の京王線では、専用軌道化のみならず、多すぎた駅が徐々に廃止されていった。戦争が激化した1945年7月になると、不要不急駅として、省線新宿駅前駅・西参道駅・幡代駅の3駅と共に当駅も廃止された。この時同時に、京王線の起点が現在の新宿駅の場所へと大きく移転して線路が切り替わったが、当駅跡地を通る甲州街道上の線路は、1963年に移設されるまで引き続き使用された。1945年10月には、京王線の法律的扱いを路面電車仕様の「軌道線」から普通鉄道仕様の「鉄道線」へと変更しているが、本格的に鉄道線化・近代化していくのは、1963年の線路移設と、以降の段階的な地下化まで待つ事になる。
※付近の線路の戦後の変遷については、新線新宿駅のページ参照。 ▼関連写真