長沢新町駅(廃駅)
最終更新: 2023/08/04
▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
長沢新町(廃駅) | ながさわしんまち | | 山梨県 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止*廃止年クリックで、 同年廃止の駅を検索 |
1930年 | 1962年 |
▼この駅を走っていた路線
運営会社*虫眼鏡クリックで、 その会社を検索 | 路線*路線名クリックで、 その路線を検索 | 種別*種別名クリックで、 その種別を検索 |
| 山梨交通 | 電車線(西部線)× | 路面電車 |
▼備考
山梨交通電車線の駅。元々は、山梨電気鉄道の駅として1930年に開業した。
山梨交通電車線は、甲府駅前からこの辺りまで伸びていた路面電車路線。甲府駅前・甲府市街を出発すると西へ曲がり、釜無川を渡ってから甲斐飯野駅で南へ折れ、巨摩高校前駅・当駅を経由して甲斐青柳駅(かいあおやぎえき)まで伸びていた。甲府市街は併用軌道(路面電車)だったが、当駅含む大部分は専用軌道を走った。山梨交通電車線の中でも、甲府市街付近の区間には「市内線」や「錦町線」という線路名も付いていたが、それ以外の大部分は「西部線」という線路名だった。地元では「ボロ電」とも呼ばれ、親しまれていたという。当駅は、終点の甲斐青柳駅から北へ2つ隣だった。
1929~1932年にかけて山梨電気鉄道が建設し、1930年から順次開通した路線だが、本来は甲斐青柳駅から更に少し南下して鰍沢(かじかざわ)まで延伸する計画だった。元々甲府~鰍沢間を山梨馬車鉄道という馬車鉄道が走っていたが、これを代替するような路線として建設された。しかし、末端の追分(後の甲斐青柳)~鰍沢間は、1930年代の山梨電気鉄道の経営悪化によってまともに着工できず、頓挫していた。その後山梨電気鉄道は種々の再建策を経て、1938年以降は「峡西電気鉄道」(きょうさいでんきてつどう)の路線となり、経営難を抜け出した。しかし、その後も延伸される事は無く、線路は青柳で途切れたままだった。
そして戦争の時代に入ると、1945年の戦時統合によって峡西電気鉄道は県内の他の各鉄道会社やバス会社などと統合され、1つの「山梨交通」という大きな会社となった。この時、「山梨交通電車線」としての運営が始まった。
終戦直後も会社は山梨交通のままで、暫くは栄えた。1950年には、甲斐青柳駅~身延線鰍沢口駅間のバスも新設され、バス乗り換えは必要なものの一応は鰍沢へのアクセスも確保した。しかし、1950年代に入ると乗合自動車(バスやタクシー)との競合に苦しむようになり、経営が傾き始めた。更に、当時進みつつあったモータリゼーション(マイカー出現による鉄道離れ)も、山梨交通電車線を苦しめた。
とどめを刺したのが、周辺を1959年に襲った2度もの台風襲来。特に、伊勢湾台風による被害は大きく、車庫や一部線路が崩壊。元々経営が傾いていた山梨交通電車線にとってこれは致命傷で、その後も細々と運行したものの、1962年には廃線に追い込まれた。現在も山梨交通の会社は存続しているが、主にバス会社となっている。
現在の当駅周辺には、「廃軌道」と呼ばれる廃線跡の道路が綺麗に残る。ここから少し南の川の手前では、当時の車両が保存されている(江ノ電に譲渡された後、ここに戻って来た車両だという)。
ちなみに、40年前の鉄道風景には山梨交通電車線の当時の貴重な写真が載っている(敬称略)。また、まっぷるトラベルガイドには、山梨交通電車線についての解説がある。 ▼関連写真