新がつく駅地図手帖

木ノ新保駅(廃駅)


最終更新: 2022/05/09

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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木ノ新保(廃駅)きのしんぼ石川県
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1919年1944年

▼この駅を走っていた路線 

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北陸鉄道金沢市内線×路面電車

▼備考 

1944年頃までこの付近にあったという、北鉄金沢市内線の電停。昔は、金沢市内にも路面電車が走っていた。1967年に全線廃止されたが、当電停はそれよりもうんと早く廃止された。 「木ノ新保」は付近一帯の古い地名で、大昔は金沢の市街地に含まれず、「木ノ新保村」という村だったほど辺鄙な場所だった。明治時代に金沢駅が誕生するとここは市街地化し、もはや金沢市街の一部として木ノ新保一番丁~七番丁の地名が付いた。これらはその後長らく金沢駅東側一帯を指す地名として残り、当電停もそこに立地した。しかし、当電停廃止後の戦後、金沢市内線末期の1965年になると、住居表示によって木ノ新保七番丁以外は全て「本町」「此花町」「堀川町」などの新地名に変更されてしまった。その後も七番丁は金沢駅の敷地内に一部残っていたが、それも2006年の区画整理で消滅し、今は金沢駅の立地地名「木ノ新保町」として名残を留めるのみ。※上記の「町」は「まち」と読む。 現在は北西の金沢駅前から南東方向へ向けて斜めに大きな駅前道路が伸びていて、当電停のあったこの場所(別院通り口交差点)はその途中にあるが、金沢市内線の走っていた当時はまだこの斜めの道路はこの場所から南東へ突き抜けておらず、駅前道路は当電停付近で真南(白銀町、しろがねちょう方面)へ折れていた。1960年代の航空写真を見ると、それがよく分かる。当然、金沢市内線の路面電車もこの折れた経路を通った。今でもその名残で、「石川県道13号金沢停車場線」という道路はこの折れた経路を通っている。南東へ突き抜ける道路は、1996年に後から通された。 当電停は金沢駅前へ伸びる線路の途中にあったが、当電停のあった頃と廃止後では、その線路の形態が違った。1944年以前は白銀町(現・白銀交差点)~当電停~金沢駅前の1本道だったが、1945年に六枚町(現・六枚交差点、後に英町、はなぶさちょう)経由の線路が追加され、白銀町~六枚町(英町)~金沢駅前~(当電停跡地)~白銀町というループ線が形成された。 金沢市内線の歴史は、金沢電気軌道に始まった。金沢に最初に鉄道がやって来たのは1898年の北陸線(後の北陸本線)小松~金沢駅間の延伸開業で、その時に金沢駅が誕生。以降、金沢駅周辺には人力車や馬車鉄道が普及したが、その後、人力や馬車ではなく電化された近代的な鉄道(市街電車、路面電車)を望む声が金沢でも出るようになり、それが金沢電気軌道誕生のきっかけとなった。 1916年に誕生した金沢電気軌道は「街鉄」(がいてつ)とも呼ばれ、その後実際に路面電車の建設を始めた。建設と同時に、江戸時代以来の狭い道路を拡張する道路の近代化工事も行われ、1919年には遂に、当電停を含む最初の区間である第1期線が開通。金沢市街は北側を浅野川、南側を犀川(さいがわ)という2本の川に挟まれているが、第1期線はこの2本の川の間の部分、つまり金沢市街の中心部にて開通した。特に、当電停は第1期線のうち金沢駅前へと伸びる重要な線路の途中にあった。 その後、第1期線は成功して賑わった為、今度はより郊外方面へと伸びる追加の線路(第2期線)の建設を求める声も強まり、(着工までに一悶着あったものの)実際に無事着工された。具体的には、浅野川以北の大樋線(おおひせん)、犀川以南の野町線・野田寺町線が建設され、これらは1920~1922年にかけて開通した。 同時期に、金沢電気軌道は周辺の他の鉄道会社を買収・合併していく事で更に郊外進出を進め、その範囲は遂に金沢市外へ広がった。まず、1919年には金石電気鉄道(金沢駅の向かいの海側、金石(かないわ)・大野港という外港方面の路線)と合併しようとした。この買収は失敗に終わったが、翌年(1920年)の松金電車鉄道金野鉄道買収は成功し、これらは金沢電気軌道の郊外線である松金線・金野線とした。そして、前述の野町線を松金線と繋げ、電車を直通させた。野町線は、松金線と繋げる為の松金連絡線としても機能した(一方、元々は金石電気鉄道も買収して金石線とし、自社の市内線と繋げる金石連絡線も計画していたが、買収失敗により金石連絡線は未成に終わった)。更に、1921年には野町線の途中の野町広小路電停から南東(野村兵営前、後に寺町電停方面)へ分岐する、野田寺町線も開通。1923年には石川鉄道も買収し、石川線とした。 更に、金沢電気軌道は鉄道・軌道線事業のみならず、電気事業にも進出し、電力会社としての側面も得た。元々金沢電気瓦斯(かなざわでんきがす)という会社が担当していた電気事業のうち、市内事業は1921年に金沢市営化されたが、市外事業は金沢電気軌道が引き受けた。1931年にはバス事業も始め、金沢電気軌道は単に路面電車にとどまらない巨大会社となった。 ただ、1923年以降は他社との合併や他事業進出に重きを置くあまり、自社での新規路線建設は滞った。第2期線のうち、野町線は松金線とは別に野町以南へ延伸予定だったが中断し、大樋線も計画区間の手前で途切れた。 そのまま戦争の時代を迎えたが、金沢電気軌道は巨大会社だった事もあり、戦時中に国によって更なる統合と分離・再編が行われ、最終的には北陸鉄道が誕生した。まず、金沢電気軌道は電力会社でもあった為、1941年に北陸合同電気という電力会社の一部として統合。1942年には、電気事業・鉄道/バス事業を併せ持った北陸合同電気のうち電気事業部分が北陸配電という別会社のものとして分離され、残りの鉄道/バス事業は(初代)北陸鉄道となった。1943年には、鉄道事業の戦時統合によって現在の北陸鉄道(北鉄)が成立。つまり、長い目で見ると、金沢電気軌道は北鉄の前身にあたる。 ※この統合で、一度は買収に失敗した金石線も手に入れ、北鉄は多くの路線を持つに至った。その全貌は、懐想「石川の鉄道」トップページも参照されたし。また、北陸配電は戦後、現在の北陸電力の前身となった為、金沢電気軌道は北陸電力の前身でもある。 一方、市内の路面電車網は1943年に北鉄となった後、北鉄の金沢市内線として再スタートを切った。1944年頃に当電停を廃止した後、終戦前後の1945年を迎えると、上記のループ線の整備のほか、中途半端に短かった大樋線も東金沢駅前まで延伸。その後数年は賑わい、「市電」や「青電車」とも呼ばれて親しまれたが、高度経済成長期に入ると他都市同様、路面電車の衰退が始まる。そして、1966~1967年にかけ、金沢市内線は姿を消した。

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