林寺新家町駅(廃駅)
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▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
林寺新家町(廃駅) | はやしじしんけちょう(?) | | 大阪府 |
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1949年 | 1968年 |
▼この駅を走っていた路線
▼備考
大阪市電百済線(くだらせん)の駅(停留場)だった。1949年に、寺田町駅方面から伸びる百済線の終着駅として開業後、翌年には百済駅方面への延伸により途中駅になる。ここには、7系統が停車した。しかし、1968年の百済線廃止により、廃駅。
かつて周辺には、当駅名(停留場名)と同じ「林寺新家町」という地名も付いていたが、これは1973年に行われた住居表示によって別の地名へ変更され、消滅してしまった(いわゆる旧町名)。現在は「林寺」「生野西」「生野東」などの地名に置き換わっている。歴史上、「林寺」の読みにはブレがあり、資料によっては「はやしでら」と読む場合もあった。今となっては、地名としても交差点名としても「はやしじ」が正式で、当駅名も「はやしじ」の方だが、2022年まで近所にあった林寺小学校は、「はやしでらしょうがっこう」と読んだ(但し、林寺小学校は統廃合によって2022年3月に閉校してしまった)。
今昔マップ(敬称略)に収録の1967~1970年の地図で、当駅の記号を見る事ができる。また、記号のすぐ右上には、消滅前の旧町名である「林寺新家町」の記載も見られる。当駅の真東(記号の右側)には、廃校前の林寺小学校の記号「文」も描かれている。
※ここから南東の方、百済線の行先だった百済駅周辺には、昔から「百済」「百済野」(くだらの)のような地名が付いていた。「百済」(ペクチェ/くだら)とは本来、かつて朝鮮半島に存在した古い国の名前だが、外国の名前が大阪のその場所に付いた理由として、大昔の7世紀頃に、「百済郡」(くだらのこおり)という地区がその周辺に置かれたため、とする説がある。百済郡の始まりは、631年に百済の2人の王子(豊璋と善光)が、大和政権(海外視点では「倭国」とも、現・日本)の人質として国境を越えてその地にやって来たのがきっかけだったという。ちょうどその頃、百済が衰退し始め、660年には百済が唐(現・中国)や新羅(シルラ/しらぎ)に滅ぼされてしまったが、倭国は百済の復活・再興を支援すべく、663年に援軍を送って百済・倭国の連合軍を成し、白村江の戦い(はくすきのえ/はくそんこうのたたかい)を起こした。しかし、唐・新羅連合軍が圧勝し、百済・倭国連合軍は惨敗したため、倭国の百済への支援は失敗し、百済は完全に滅亡してしまった。百済の滅亡後、倭国(大和政権)はその難民を積極的に受け入れるようになり、百済郡には百済からの難民(移住者)が渡来人として沢山住むようになった。彼らは日本に多くの高度な技術や文化も伝えた。渡来人居住地としての百済郡は後に消滅したが、その後1000年以上もの間、名残として「百済」の地名が周辺に残り、鉄道の時代が来ると、関西本線の百済駅もそこに開業した(加美駅も同時に開業)。その百済駅は後の1945年頃に廃止されたが、今度は1950年に大阪市電が百済線の終着駅として近くに同名の百済駅を開業させた。今はいずれの駅も廃止されているが、百済貨物ターミナルという貨物駅が残っている。また、関西本線の百済駅の後継として、近隣に東部市場前駅も開業している。
※一方、当駅から見て百済とは反対方面(北西の方)にあった百済線の寺田町駅は、現在のJR大阪環状線の寺田町駅とは別の駅で、寺田町交差点付近にあった。
※大阪市電には他に、梅田新道駅などもあった。
※当電停名の「町」は、「ちょう」と読むか「まち」と読むかの記録に乏しい。一応「ちょう」としているのは、インターネット上の「ちょう」と記載している投稿による。 ▼関連写真