新千里山駅(旧称)
最終更新: 2020/07/25
▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
新千里山(旧称) | しんせんりやま | 千里山 | 大阪府 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止 |
1963年 | - - - - 年 |
▼この駅を走る路線
▼備考
1963年にこの駅名で開業後、1967年に「南千里駅」(みなみせんりえき)に改称された。駅番号HK-93の、阪急千里線の駅。但し、この駅名だった頃、千里線は「千里山線」という路線名だった。駅周辺には、千里ニュータウンという巨大なニュータウンが広がっている。日本で最初期に造られた団地で、日本の団地の中で最大とも言われる(今は高齢化や老朽化などで再開発が始まりつつある)。
阪急千里線は、天神橋筋六丁目駅(天六)と北千里駅を結ぶ路線。途中、淡路駅・吹田駅・豊津駅・千里山駅(新抜き駅)・当駅などを経由する。天六以南の大阪メトロ堺筋線や、淡路駅以西の京都線大阪梅田方面とも相互直通運転がされている。千里線には他に、下新庄駅もある。また、千里山駅はここから南隣。
元々、淡路駅以北は北大阪電気鉄道、以南は新京阪鉄道の区間だったが、両路線とも、後に京阪の千里山線となった。京阪が阪急と合併して京阪神急行電鉄になった後は、京阪というよりも阪急寄りの路線に変わっていき、「阪急の千里山線」として認知されるようになっていった。
1960年代に入ると、それまで千里山駅止まりだった千里山線は、千里ニュータウンへのアクセス線としての役割を果たすべく、ニュータウン近くの当駅まで延伸された(1963年)。この時「新千里山駅」として誕生した当駅は、千里ニュータウン内で初の鉄道となった。1960年代の航空写真には、その当時の様子が写っている。まだ当駅が「新千里山駅」を名乗り、千里山線が当駅止まりでホームも短く、出来立てほやほやの千里ニュータウンが当駅東側・北側一帯に広がる様が写っている。西側一帯はまだ未開発の森で、当時の千里ニュータウンはまだ小さかった事が分かる。この頃の当駅は映画「青春のお通り」のロケ地として撮影され、この映画にはこの駅名だった頃の当駅が写っている。
その後、ここから更に北へ、北千里駅まで線路が延伸された1967年には、当駅が「南千里駅」へ改称されると同時に、路線名も「千里山線」から「千里線」へと改められた。1970年には、千里ニュータウンで2番目の鉄道アクセス線、北大阪急行線も開業している。1970年の大阪万博は千里ニュータウンの近くで開催されたため、開催時には北大阪急行線だけでなく、千里線内に設けられた臨時の「万国博西口駅」(現在の山田駅近く)も万博輸送に使われた。
当駅では1967年の延伸時に、短かったホームの延長と共に島の増設もなされた。元々島式ホーム1面2線のみの終着駅だった当駅は、この時西側にもう1つホームの島が増設され、今はホームの島が2つになっている(当初からあった島は東側で、増設された方が西側)。しかし、これで2面4線化されたかと言うとそうではなく、当駅の線路は今も2本のみ。どういう事かというと、当駅の一番東側に元々あった線路(東の島の東側)は「3号線」とされたものの、これが島の増設後には使われなくなったため。しかも、西の島の西側にも4本目の線路(4号線)が増設される事は無かったため、現在の当駅は島が2つあるのに実質2面2線の相対式ホーム状態になっている。3号線跡は後に線路が撤去されたが、今もスペースが残っている。
ただ、当駅は構造上、その気になれば3号線を復活させ、更に一番西側に4号線を増設し、2面4線化できる構造になっている。これはかつて、千里山線の延伸先が北千里駅ではなく、千里中央経由・箕面線の桜井駅方面だった頃、当駅が主要な途中駅となる計画だったため。しかし、当初の計画ルートが千里ニュータウンの開発計画を邪魔するとして延伸先が北千里駅へと変更され、結局桜井方面への延伸は未成線となった。
※阪急では、「番線」ではなく「号線」という言い回しが使われる。
ところで、当駅すぐ北西には千里ニュータウンの竹見台というエリアがあるが、そこには、かつて昭和の団地に多く見られ、今となっては貴重となったスターハウスのうち、特にレアな高層スターハウスが建っている。老朽化等で一部が取り壊されたが、建て替え後もスター型は受け継がれるという。
また、終点の北千里駅は、日本初の自動改札機が導入された駅としても知られる。これは画期的で、券を投入後一瞬で処理できる現代の電気的な形式としては、世界初でもある。1967年の開業当初から設置されていた。 ▼関連写真