新長後駅(旧称)
最終更新: 2023/07/28
▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
新長後(旧称) | しんちょうご | 長後 | 神奈川県 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止 |
1929年 | - - - - 年 |
▼この駅を走る路線
▼備考
駅番号OE08の、小田急江ノ島線の駅。江ノ島線は、相模大野駅で小田原線から南へ分岐し、中央林間駅や長後駅(当駅)、湘南台駅、藤沢駅などを通って南下し、片瀬江ノ島駅まで伸びる路線。途中、藤沢駅でスイッチバックする。
当駅は1929年にこの駅名で開業後、1958年に「新」が抜かれた。今昔マップ(敬称略)に収録の1944~1954年の地図で、この駅名だった頃の当駅を見る事ができる。立地する長後の街はかつて大山街道や八王子街道などの宿場町として栄え、鉄道の時代になると小田急も長後の玄関口として当駅を設置した。また、相武電気鉄道という別の会社もここへ駅と線路を通そうとした事からも、当時の長後が栄えていた事が分かる(これは未成線となった)。
ただ、当駅は1929年当時の長後の属した高座郡渋谷町(こうざぐんしぶやまち)ではなく、市町村境界を挟んで南隣の高座郡六会村(むつあいむら)に設置された為、そのまま名乗るのを避け、「新」を付けて開業したという。今でもその名残として、長後の住所(神奈川県藤沢市長後)と当駅の住所(神奈川県藤沢市下土棚)は異なる。かつては長後が渋谷町、下土棚が六会村だった。しかし、後の市町村合併で最終的には共に藤沢市の一部となり、この区別は形骸化した為、1958年に「新」を抜いたという。
※上記の「渋谷町」は、現在も当駅北隣の「高座渋谷駅」などに名が残る。旧・渋谷町の範囲は後の時代に分断され、北部は最終的に大和市、南部は藤沢市になった。
その後も暫く、当駅は付近でも比較的利用者が多く、重要な駅として江ノ島線の急行などの優等種別も停車した。街としても、長後は藤沢市北部の中心地として栄えた。しかし、時代が進むと長後に転換期が訪れる。1965年に横浜市営地下鉄(横浜市高速鉄道1号線、現・ブルーライン)の建設計画が発表され、長後(当駅)が地下鉄の西端の終着駅として計画された。当駅は当時重要な駅だった為、ここを小田急と地下鉄の乗換駅とする計画だった。更に、相鉄いずみ野線までもが当駅を目指して延伸予定であり、実現すれば当駅が小田急・いずみ野線・地下鉄の3つが集まる一大乗換駅になっていた。その将来性から、この計画は地元長後の若者の間でも歓迎された。
しかし、主に1970年頃になると、長後の商店街や地主の頑固な年配者を中心に、長後への地下鉄駅建設に対する反対運動が起こされ、計画は撤回に追い込まれてしまった。反対理由として、「長後の街から地下鉄経由で横浜へ人が流出してしまう(ストロー現象)」「地下鉄によって当駅周辺に再開発が行われると商店街に立ち退きが発生したり、脅威となる新店舗が上陸したりするから困る」などが叫ばれたらしい。当時はまだ長後が栄えており、年配者が強気でいられたのも原因と思われる。その結果、延伸先は当時田舎で何も無かった湘南台(しょうなんだい)が選ばれ、地下鉄・いずみ野線共に、計画変更・ルート変更が行われた。両線共に当駅の東方一帯で一斉に南へ急カーブしているのは、行先を当駅から湘南台駅へと後から捻じ曲げた名残。 ※他の延伸変更先候補として六会駅(現・六会日大前駅)もあったが、1980年代には湘南台に決まったという。
一方、湘南台の方は元々地下鉄とは関係無く、藤沢市の開発計画によって1960年代から徐々に街が作られていった。湘南台駅もそれに合わせて後から1966年に開業し、戦前からある当駅とは対照的に歴史の浅い駅だった。当初の湘南台は更地が多かったが、1980年代にかけて徐々に開発が進んだ。それでも、歴史と風格のある当駅と比べて重要性は低かった為、長らく急行が通過するなど、目立たない存在だった。そんな湘南台を横目に、当駅周辺の長後商店街の年配者は反対運動を強気で繰り広げていた。
※現在も、当駅のホームが2面4線と多いのに対し、後から追加開業した湘南台駅は2面2線しか無い事を考えると、かつては当駅の方が格上だった事が分かる。
しかし、その後の湘南台の発展、特に地下鉄開業後の発展は目覚ましかった。実際の地下鉄・いずみ野線の延伸開業は1999年と遅れたが、上記の反対運動の結果、1991年には既に延伸先が湘南台へと決まっていた為、それを見越して湘南台の開発に弾みが付き、利便性を求めて多くの人々が移住して来た。また、当時ドーナツ化現象と共に全国で流行していた大学の郊外型キャンパスの立地としても選ばれ、湘南台西方に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)も出来た(1991年)。大学は湘南台駅からやや距離はあるが最寄り駅として学生にも使われるようになった(将来いずみ野線を湘南台からSFCへ延伸する構想もある)。湘南台は元が田舎だった事もあって反発勢力も特に無く、用地買収が楽だった点も背中を押した。
この流れの中で、湘南台と長後の立場が逆転した。湘南台駅の利用者は増えたが、当駅の利用者は減少。それを受け、湘南台駅は2000年には遂に急行停車駅へと格上げ。一方、2002年には湘南台駅に停車するが長後駅(当駅)は通過する列車(現・快速急行)が現れ始め、当駅停車の急行も減少。それに合わせて、当駅周辺の長後の街も衰退し、商店街の閉店も相次いだ。今や、藤沢市公式のPDFで(長後から)「湘南台駅周辺へと市北部の中心が移っています」と言われる始末。 ※湘南台は湘南台で、もっぱら乗換客ばかりでなかなか人が駅の外へ出てこない問題もあるというが、当駅周辺の衰退ぶりに比べると人が多いだけまし。
権威を持った年配者が(いわゆる)「老害」となった結果若者の声が蔑ろにされ、そのせいで街が衰退したという上記の経緯から、防ぐ事ができたはずの分かりやすい典型的な失敗例として、今も語られている。
※ロマンスカーMSEを除き、江ノ島線では基本的に千代田線直通列車が無い。江ノ島線内の駅のホームが短いのが主な理由。 ▼関連写真