新がつく駅地図手帖

新喜多駅(廃駅)


最終更新: 2021/05/31

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新喜多(廃駅)しぎた大阪府
開業*開業年クリックで、
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1912年1916年

▼この駅を走っていた路線 

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鉄道院片町線普通鉄道

▼備考 

位置は推測。1912~1916年の間に、この辺りにあったという駅。当時の片町線は路線名通りで、ここから西に2つ隣の「片町駅」が終点だった。駅名の元となった周辺の地名は、江戸時代に付近を新田開発した3人の名前(鴻池十郎・鴻池七・今木屋兵衛)から1文字ずつ取ったものだという。 ※時代は違うが、東の方には大阪市営トロリーバスの新喜多大橋停留所というのもあった。 ※今の片町線には鴻池新田駅などがある。 ※鉄道院は、日本の国有鉄道を運営していた国の古い機関。その路線は「院線」とも呼ばれた。国有鉄道の運営機関の始まりは、1872年に日本初の鉄道が開通する前年(1871年)に設置された工部省内の「鉄道寮」で、これが後に「鉄道局」に名を変えた。日本初の鉄道建設から現場で中心となって活躍した井上勝(いのうえまさる)は後に鉄道局長となり、京都~旧・逢坂山隧道初代大津間の工事では、労働者に交じって自らもツルハシを持って活躍などした。この区間は、初めて日本人のみの手で建設した区間だったという(それまではお雇い外国人などの力を借りて建設していた)。彼は鉄道の父と言われる。鉄道を運営する国の機関はその後も改組や改称・分離などを重ね、1890年には「鉄道庁」、1893年には逓信省内の「鉄道局」、1897年には「鉄道作業局」、1907年には「帝国鉄道庁」となった。1890年の鉄道庁の時も、井上勝が鉄道庁長官を務めた。しかし、あまりに組織の体制が複雑に変わって混乱が起きたため、1908年には体制を整理して「鉄道院」が発足した。後に1920年になると、鉄道院は「鉄道省」として昇格している。 ※井上勝は、鉄道庁長官辞任後の晩年には国の鉄道機関を離れたが、その後も1896年に汽車製造という日本初の機関車(当時はSL)製造会社を設立し、日本の鉄道の発展のために尽力した。設立には渋沢栄一なども協力した。客車などの動力の無い車両は当時既に国内で製造できるようになっていたが、動力源となるSLは未だに海外からの輸入に頼っていたため、これも国産で賄えるようにと設立し、SL製造技術の習得と継承を試行錯誤した後、1899年には大阪に初のSL製造工場を建てた。汽車製造はその後も時代に合わせて成長し、地下鉄車両や私鉄の電車までをも造るようになり、戦後まで存続。新幹線0系の製造も、日本車両製造など他の車両メーカーと共に、汽車製造の東京製作所も担当した。

▼関連写真 

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