新がつく駅地図手帖

新橋駅(旧称・廃駅)


最終更新: 2022/10/14

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新橋(旧称・廃駅)しんばし東京都
開業*開業年クリックで、
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1872年1986年

▼この駅を走っていた路線 

運営会社*虫眼鏡クリックで、
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種別*種別名クリックで、
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日本国有鉄道(国鉄)東海道本線普通鉄道
日本国有鉄道(国鉄)東海道本線貨物支線(東京市場線)(築地市場引込線)×貨物
日本国有鉄道(国鉄)東海道本線貨物支線(東海道貨物線)(大汐線)×貨物
日本国有鉄道(国鉄)東海道本線貨物支線(芝浦貨物線)×貨物
東京都港湾局東京都港湾局専用線(日の出線)×貨物
東京都港湾局東京都港湾局専用線(芝浦線)×貨物

▼備考 

日本初の鉄道として、1872年に開業した路線(新橋~横浜間)の始発駅だった。建設にはお雇い外国人の他、井上勝や大隈重信等多くの人が携わった。1067mmの狭軌はこの時始まったが、これはお雇い外国人の意見に従った結果という。この線路は後に品川線経由で日本鉄道と繋がり、中山道幹線と連携予定だったが、最終的には東海道本線の一部となった。 当初の当駅は旅客と貨物の両方を扱う東京の鉄道起点駅として機能したが、後の1914年に丸の内の東京駅が開業した事で、旅客駅の機能を東京駅に譲る事になり、当駅は貨物専用駅となった。その時、駅名が「汐留駅」(汐留貨物駅)に変わり、隣の別の駅(烏森駅)が「新橋駅」に改称された(これが今の新橋駅)。※建設中の東京駅は、「中央停車場」と呼ばれた。 当駅はその後長い間貨物専用の汐留駅として続き、東京の鉄道貨物ターミナルとして機能したが、手狭な敷地や、鉄道による荷物取扱の廃止等を受け、その機能を東京貨物ターミナル駅(以降、東タ)へ譲り、ここは1986年に廃止。※貨車が必要な大型な「貨物」と、小型な「荷物」は区別された。 今は跡地が再開発され、「旧新橋停車場」という史跡や汐留シオサイトになっている。汐留シオサイトは、林立する超高層ビル群が有名。 但し、1872年6月12日に品川~横浜(現・桜木町駅)間が仮開業し、同年10月14日に新橋(当駅)~品川~横浜(現・桜木町駅)間が正式開業したので、日本初の鉄道駅は品川駅と桜木町駅であって、当駅ではない。正式開業日は明治天皇が初めてご乗車された日で、その日をもって初めて正式開業と見なされた。元々は3日前の10月11日に正式開業予定だったが、その日は荒天だった為やむなく延期されたという。今はこの10月14日を記念し、国が「鉄道の日」として定めている。特に、2022年の鉄道の日は1872年から丁度150年目の節目の日にあたり、日本の鉄道開業150周年として多くのイベントや特設サイトなどが開設・開催された。 ※当時の日本はまだぎりぎり太陰太陽暦(いわゆる旧暦)を採用しており、本来の正式開業予定日(10月11日)は旧暦に換算すると9月9日だった。これは重陽の節句(ちょうようのせっく)という縁起の良い日で、敢えてその日を選んだものの、荒天だった。現在の新暦である太陽暦は、鉄道正式開業から僅か約3ヶ月後に導入されている(旧暦の1872年12月2日が急遽大晦日とされ、その翌日が新暦の1873年1月1日となった)。 ※「新」がつく駅の古さランキングも参照。 先に品川~横浜間が開通し、遅れて品川~当駅間が開業したのは、線路を敷く工事が遅れた為。既に市街地化した品川~新橋間の住民が線路を敷かれる事に反対して用地買収が難航した上に、この区間の海沿い(高輪海岸)には当時、軍事上重要な兵部省(ひょうぶしょう、今で言う防衛省)の敷地があり、それを避ける為、この区間はやむなく海の上に築堤を作って線路を敷く事で解決した(高輪築堤)。つまり、元々品川~新橋間の東海道本線は海の上を走っていた。しかし、後に周りが埋め立てられて完全に陸地化し、長い歴史の中で線路の増設や線路用地の拡幅等も度重なった為、最初の築堤の位置も曖昧になっていた。そんな中、高輪ゲートウェイの再開発工事中にこの高輪築堤の本物が偶然発掘された。 ※正式な路線としてはこれが日本初の鉄道だが、試験的な走行自体は既に幕末から幾らか行われていた。1854年のペリー2度目の来航時に、大型模型を持ち込んで走らせて見せたのが最初。翌年には佐賀藩にて、日本人の手でSL模型・蒸気船模型の製作に成功。1869年には、簡易なトロッコが北海道の鉱山に敷かれた。 ※東京坂道ゆるランには、上空から見た当駅の航空写真が載っている(敬称略)。 ※すぐ北西の交差点には、都電の新橋電停もあった。 ※大汐線(おおしおせん)は、井埠頭にある東タ~当駅(留駅)間の貨物線の通称。大汐線の当駅側は汐留の再開発で道路やゆりかもめ用地等となり潰されたが、途中の浜松町以南は今も休止線として残る。この大汐線の現存部分は田町~高輪ゲートウェイ間辺りで南東へ分岐して東海道本線の本体から離れ、東タまで伸びるが、これをJR東日本が羽田空港アクセス線の「東山手ルート」(東京方面)として転用する計画がある(2029年度)。つまり、将来大汐線に乗れる。※東タの西隣には東海道新幹線の大井車両基地もあり、その回送線も大汐線と並走。 ※当駅からは、東南東の築地市場(東京市場駅)方面の貨物線(1984年廃線)や、南の方の芝浦駅方面の貨物線(1985年廃線)も出ていた。築地市場の建物が扇形だったのは、当初は貨物列車が入線した為。築地方面の廃線跡は一部が道路となり、そこには当時の踏切が1つだけ残る(浜離宮前踏切跡)。ただ、築地市場は2018年に閉鎖され、豊洲市場へ移転。旧築地市場は壊され、跡地は環二通り用地等に転用された。また、芝浦駅は現在のゆりかもめ芝浦ふ頭駅付近にあり、芝浦駅方面の線路は竹芝・日の出・芝浦の各埠頭の貨物を扱った。「芝浦」の地名は「芝地区の浦(海辺)」という意味で、芝浦製作所もこの地名が由来。

▼関連写真 

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汐留のビルの谷間にひっそりとある、新橋停車場跡(旧新橋停車場)。建っているのは、当時の駅舎を復元した建物。この中は、2003年開館の鉄道歴史展示室となっている。展示室内は撮影禁止だった。ところで、モデルとなった当時の本物の初代駅舎は開業当初から建っていて、旅客駅としての機能を失った1914年以降もその建物は残っていたが、1923年の関東大震災の時に焼失したことで失われた。この時、すぐ西にあった現・新橋駅のレンガ駅舎も被災したが、そっちは補修されつつ戦後まで使われた。関東大震災前には、使われなくなった当駅舎を鉄道の博物館にする構想もあったというが、実現しない間に震災で頓挫した。【撮影日:2013/03/17】

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斜めから。入口の階段の一部がガラスで囲まれ、その中に四角い穴が開いているが、そこに本物の遺構(階段の最下段、後述)が埋まっている【撮影日:2013/03/17】

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遺構の説明看板。当時の写真も載っている。この遺構は再建前のオリジナルの当駅舎の入口にあった階段の最下段が見つかったものだという。現在の復元再建駅舎を建てる時に、当初はオリジナルの駅舎の正確なサイズがどれくらいだったかが分からなかったというが、この最下段遺構が発見されたお陰でサイズがはっきりし、正確なサイズでの復元が実現したとのこと。【撮影日:2013/03/17】

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復元駅舎を、反対側から。こっちは、ホームになっている(これも復元したもの)。当時のレールも一部再現されているが、ここにあるレールはある意味で本物(後述)。また、当時は枕木をバラストで覆い隠していたという。【撮影日:2013/03/17】 今主流の平底レール(へいていれーる、断面の下側の方が大きく平らなレール)とは違い、断面が上下共に同じ形をした双頭レール(そうとう〃)というものが使われていたらしい。平底レールの断面は「」に近い「」、双頭レールは「I」のような形。双頭レールのその形は、長年使って上部がすり減った時にひっくり返して、下側をまた使うためだったという。しかし、その形から安定性に欠けていたため早々に使われなくなり、明治など鉄道黎明期にしか使われなかった。そのため、現存するものは今では貴重で、後述の寄贈品以外に、国内にはもはや原形を保ったものがほぼ残っていないらしい。というのも、柵や建材に転用されたものや、文鎮型に切られたものくらいしか見当たらなくなっている。 ここにある復元レールも双頭レールだが、この復元展示は完全なレプリカではなく、レール部分は本物となっている。これは元々当駅で使われたものではないため、その意味では本当の本物ではない。しかし、当時の同じ時代(1873年)にイギリスで作られて日本へ輸入された同型の本物がたまたま新潟の工場内に保管されており、それをここへ寄贈してもらった事で、この復元展示が実現した。つまり、ここに展示されているレールは双頭レールとしては本物であり、非常に貴重なものとなっている。

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日本初の鉄道の起点だったレールと、その標識についての案内看板。但し、よく見ると現在のような「0キロポスト」ではなく、「0哩標識」(ゼロマイルひょうしき)となっていて、ヤード・ポンド法が使われていた事が分かる。明治時代にイギリスなどからの輸入に頼って鉄道を導入した日本には、当然ながら輸入品と一緒にヤード・ポンド法も上陸して来た事になり、当初は日本の鉄道もヤード・ポンド法を使っていたという。しかし、鉄道省は世界のメートル法への統一の風潮を受け、1930年にメートル法へ移行(PDF)したという。現在見られる「営業キロ」も、メートル法に則ったもの。【撮影日:2013/03/17】 ※その他周辺の展示については、おやじのつぶやきが詳しい(敬称略)。

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