新がつく駅地図手帖

池新田駅(旧称・廃駅)


最終更新: 2023/08/09

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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池新田(旧称・廃駅)いけしんでん静岡県
開業*開業年クリックで、
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1948年1964年

▼この駅を走っていた路線 

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静岡鉄道駿遠線×軽便鉄道

▼備考 

1948年に開業した、駿遠線の駅。当駅はまず1948年1月に、静岡鉄道中遠線の東端の終着駅として開業した。しかし、同年9月に更なる延伸があり、すぐに途中駅となった。西隣は塩原新田駅、延伸先の東隣は桜ヶ池駅(さくらがいけえき)となった。この延伸時に、路線名が「駿遠線」へと改称された。 当初の当駅の立地は小笠郡(おがさぐん)池新田町(いけしんでんちょう)であり、約1.4km北の方には池新田町の中心市街もあったため、この駅名を名乗った。その中心市街にはかつて、堀之内軌道という別の路線の同名の池新田駅もあったが、堀之内軌道は当駅開業時には既に廃止されており、これらは同時には存在していない。一方、当駅はこの中心市街から南へ外れた辺鄙な場所に開業し、周辺には畑が広がっていた。1960年代の航空写真には当駅や駿遠線の線路が写っているが、これを見ても、当時はその周囲が田舎だった事が分かる。池新田の中心市街はここから北へ約1.4km離れており、当時の中心市街は今より小さかった事も分かる。一方、当駅の南側一帯には浜岡砂丘が広がり、細長い防砂林も分布している。 ※このような辺鄙な場所に当駅が開通した原因は、元々集落の分布を無視して敷かれた遠江射場の軍用軌道を戦後に転用して開通した区間だったため。浜岡砂丘は戦時中、遠江射場として軍に利用され、その遺構は今も点在する。池新田地区にもトーチカ跡が残る。 1948年の当駅開業から7年後の1955年になると、当駅の立地した池新田町が周辺の各村と合併し、浜岡町(はまおかちょう)となった。この時、当駅も新町名に合わせて「浜岡町駅」(はまおかちょうえき)に改称された。池新田の市街地は合併後も引き続き浜岡町の中心市街として機能し、当駅は名実ともに浜岡町の玄関口となった。 しかし、それから10年も経たない(開業からも20年経たない)うちに、当駅は廃止に追い込まれた(1964年)。上記の通り、当駅含む駿遠線の付近の区間は沿線市街地から南へ外れた辺鄙な場所を通る箇所が多かったため、この区間は元々駿遠線の中でも特に経営が脆弱だった。そのため、その間に進んだモータリゼーション(自家用車の普及)の影響を真っ先に受け、1964年には該当区間(新三俣~当駅~堀野新田間)が部分廃止、当駅も廃駅となった。 駿遠線の廃止後、周辺地域は劇的に変化した。まず、当駅跡には国道150号が建設されたため、当駅の痕跡は全くと言っていいほど残っていない。また、1967年にはここから南東の方の浜岡砂丘の土地が原発用地として確保され、1971年には原発建設開始、1976年には浜岡原子力発電所(浜岡原発)が完成している。そして、北へ1.4km離れていた池新田(後年は浜岡町)の中心市街の範囲も徐々に南へ拡大し、当駅跡周辺へも市街地開発が押し寄せて来た。その間、駅跡周辺にあった畑も徐々に潰され、新しい道路が通り、浜岡町役場も当駅跡至近距離へと移転して来た。1998年には近くにイオンタウン浜岡も開業し、むしろ当駅跡周辺の方が新たな中心市街として機能するようになった。 その後、浜岡町は2004年まで存続したが、その年の平成の大合併によって隣接する榛原郡(はいばらぐん)御前崎町(おまえざきちょう)と合併する事になり、現在は御前崎市の一部となっている。新市名は、岬の名前として知名度の高い御前崎町側から取られたが、市の中心市街は、浜岡町側が担う事になった。当駅跡至近距離の浜岡町役場は合併後も引き続き御前崎市役所として使われている。かつては中心市街から離れており田舎だった当駅周辺が、今や逆に中心市街となっている事を考えると、不思議なもの。

▼関連写真 

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