堀野新田駅(廃駅)
最終更新: 2023/08/09
▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
堀野新田(廃駅) | ほりのしんでん | | 静岡県 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止*廃止年クリックで、 同年廃止の駅を検索 |
1948年 | 1968年 |
▼この駅を走っていた路線
運営会社*虫眼鏡クリックで、 その会社を検索 | 路線*路線名クリックで、 その路線を検索 | 種別*種別名クリックで、 その種別を検索 |
| 静岡鉄道 | 駿遠線× | 軽便鉄道 |
▼備考
1948年9月に開業した、駿遠線の駅。駿遠線は、日本一長い軽便鉄道だったという。新袋井駅を出発し、途中の新三俣駅や御前崎の浜岡町駅・当駅などを通って、新藤枝駅の方まではるばる伸びていた。当駅はそんな駿遠線の中でも最も最後に開通した部分にあり、戦後に開業している事からもその時期の遅さが分かる。
元々は長らく、新藤枝側から南下して来て当駅北隣の地頭方駅(じとうがたえき)で行き止まる藤相線と、新袋井側から新三俣までで行き止まる中遠線に分かれていて、当駅付近には線路は存在しなかった。中遠線は1948年1月に池新田駅(浜岡町駅の旧称)まで延伸し、両路線は更に近づいたものの、それでも池新田~(当駅)~地頭方駅間には線路が無かった。
しかし、分断されていたこれら2路線を結ぶ線路が1948年9月に開通し、この時、新袋井~新藤枝間が一気に繋がった。当駅はこの時開通した線路上にあり、同時に開業。路線名も「駿遠線」となり、日本一長い軽便鉄道が誕生した。
ただ、この延伸部分含む1948年開通区間(新三俣~池新田~当駅~地頭方駅間)は短命で、元々沿線に田舎が多かった上、肝心の市街地からも遠い辺鄙な場所に駅や線路が通されていた箇所も多かったため客が少なかった。その不便さが祟り、この区間はモータリゼーション(自家用車の普及)が訪れると真っ先にやられる事になった。
線路がこのような辺鄙な場所を通った原因は、上記のこの延伸区間の大半(特に、新三俣南東部~塩原新田~池新田駅間)が、元々集落の分布を無視して敷かれた軍用軌道を元にして建設されたためという。旧帝国陸軍により、沿線一帯に広がる浜岡砂丘が日中戦争以降遠江射場(とおとうみしゃじょう)として軍事利用された事があり、軌道はその関連設備だった可能性がある。終戦後は当然、遠江射場は民間へと払い下げられ、射場内の旧兵舎が改装されて中学校校舎(睦浜中学校、現・掛川市立大浜中学校)へと転用されたりしたが、駿遠線もこれに乗じたと思われる。延伸時期が戦後の1948年だった事からもそれは窺える。
そうした経緯から経営難に陥ったこの区間のうち、まず新三俣~当駅間(当駅以西)が先行して1964年に廃止。これは駿遠線全体の廃止よりも早かった。この部分廃止で、当駅は一時的に終着駅となった。つまり、駿遠線が端から端まで全通していた時期は1948~1964年の間だけであり、20年にも満たない。更に、1968年には当駅を含む残りの区間ももろとも廃止されたので、当駅も廃駅となった。 ▼関連写真