新がつく駅地図手帖

新橋駅(東京市電気局・廃駅)


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▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新橋(廃駅)しんばし東京都
開業*開業年クリックで、
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1903年1914年

▼この駅を走っていた路線 

運営会社*虫眼鏡クリックで、
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路線*路線名クリックで、
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種別*種別名クリックで、
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東京市電気局東京市電本通線(1系統)×路面電車
東京市電気局東京市電本通線(22系統)×路面電車
東京市電気局東京市電本通線(4系統)×路面電車

▼備考 

東京電車鉄道の停留場として、1903年に開業した。新橋という名前の橋(後述)のすぐ北側に立地した事から、この停留場名となった。新橋を挟んで南隣の芝口停留場も、ここと同時に開業。一方、北隣は銀座七丁目停留場だった。 元々ここには、遥か昔の1882年から、東京馬車鉄道によって浅草方面へのレールが敷かれ、レール上を馬車で移動する馬車鉄道が運行されていた。1372mmのいわゆる「馬車軌間」は、この時始まった。東京馬車鉄道は、日本鉄道に次いで日本で2番目に発足した私鉄でもあった。1889年には、品川乗合馬車鉄道によって馬車の運行が品川まで広がった。当初品川方面へはレール無しで馬車が走っていたが、1897年に、品川乗合馬車鉄道から改称した品川馬車鉄道がそこをレール化し、レールと馬車による馬車鉄道の運行が浅草~上野~新橋~品川と広範囲で行われるようになっていった。1899年には、品川馬車鉄道が東京馬車鉄道に吸収合併され、東京馬車鉄道が付近の路線網を広く受け持った。 しかし、馬車鉄道は馬を動力とする以上、道路上に馬の糞尿が落とされ、それによる悪臭や汚染が社会問題となっていった。そのため、馬を使うのをやめ、代わりに電気で走らせるという「電車化」(電化)が検討されるようになった。それを受け、1900年には東京馬車鉄道が「東京電車鉄道」へと社名変更し、1903年には実際に電化第1号として芝口~品川間が電化された。これこそが、東京初の路面電車となった。糞尿問題解決のため、電化は同年中に一気に行われ、当停留場の区間も1903年に電化。あくまで路面電車としての開業年という事で、データ上はこの年をもって当停留場の開業年としている。 1906年には更なる運営会社合併で東京鉄道の停留場となるが、かねてより議論されていた路面電車の公営化が実行され、1911年に東京鉄道が東京市に買収された。この時、ここは東京市電気局による東京市電の停留場となった。しかし、南隣の停留場も近いためか、この停留場は1914年に廃止。東京市電は、後の東京都電。 ※そもそも最初にここに「新橋」停留場が出来たのは、かつてここのすぐ南側を流れていた汐留川「新橋」という名前の橋が架かっていたため。今で言う銀座八丁目交差点のすぐ南に架かっていて、この停留場はその北詰にあった。この橋は「新橋」という地名の由来でもあり、江戸時代には既にその名の橋がここに架かっていた。先に架けられた土橋に対して、よりしいという意味で命名されたらしい。江戸中期には一時期、芝口御門という門がここに設置され、新橋とその門がセットとされた事から、新橋も一時的に「芝口橋」へと改称されたが、芝口御門が廃止されると橋の名も再び「新橋」へと戻った。芝口とは、ここを通っていた(旧)東海道から見て、芝御屋敷(現・旧芝離宮恩賜庭園)のあった地区への玄関という意味から。明治以降の芝口停留場も、それに由来する。明治時代に入ると、木橋だった新橋は鉄橋に架け替えられた。この鉄橋を、上記の馬車鉄道や路面電車が渡った。関東大震災後には更に、鉄筋コンクリート製の橋へと架け替えられた。1947年頃の航空写真には、汐留川と、それを渡る新橋が写っている。 しかし、高度経済成長期になると、架かっていた汐留川が埋め立てられ、川の跡地にはKK線の高架も建設された。この時、新橋は橋としての機能を失い、大半が撤去された。同時に、同じく汐留川に架かっていた土橋・難波橋・蓬莱橋なども廃止されている。ただ、新橋は完全撤去された訳ではなく、今でもその親柱(橋の4隅にあった柱)4本のうち1本が保存されている。 ※付近には汐留川の他に、築地川など他にも多くの川(運河)が張り巡らされていた。これらは一斉に、高度経済成長期に埋められている。 ※大江戸歴史散歩を楽しむ会のページには、当停留場やその由来となった新橋という橋、更に南隣の芝口停留場や土橋停留場新橋停車場までもが描かれた地図が載っている(敬称略)。

▼関連写真 

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