新道通駅(廃駅)
最終更新: 2021/05/16
▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
新道通(廃駅) | しんみちどおり | | 愛知県 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止*廃止年クリックで、 同年廃止の駅を検索 |
1912年 | 1918年 |
▼この駅を走っていた路線
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| 名古屋電気鉄道 | 押切線(市内線)× | 路面電車 |
▼備考
位置は推測。名古屋電気鉄道の押切線(おしきりせん)にあった電停。当電停は押切線のうち、1926年に部分廃止された区間にあったが、電停自体はそれよりも前に廃止されている。
名古屋電気鉄道(略して名電、後の名古屋市電)は、後の名古屋市電や名鉄の元となった先駆的な会社で、その本社はちょうど当電停近辺の那古野町(なごのちょう)にあった。ここからすぐ西には、那古野交差点もある。名電は当初、栄町線を皮切りに、名古屋市街地の路面電車路線群を建設していき、押切線も1901年に開通した。
押切線は、ここから南南東にある柳橋(やなぎばし)から北上し、泥江橋(ひじえばし、後に泥江町)、志摩町(現・那古野一丁目交差点付近)へと進むと西へ折れ、当電停の場所を通って那古野町へ進み、そこから再び北上して菊井町、押切町(現・押切交差点付近)電停へと伸びていた。当電停は開通当初は無かったが、1912年までに新設された(正確な新設年は記録が無いため、データ上は当電停の開業年を1912年とした)。柳橋交差点付近にあった柳橋電停では、東西に栄町線が、南へは下江川線も伸びていた。那古野町には、路面電車の那古野工場も作られた。
名電は数年かけて路面電車網を発達させていった後、今度は市街地内の路面電車だけでなく、市街地外の郊外へと伸びる郊外線の建設にも取り掛かった。これは当時既にアメリカで成功していた、インターアーバンというものを参考にしたという。郊外線は「郡部線」(ぐんぶせん)と呼ばれ、それまでの路面電車網を「市内線」と呼ぶ事で区別した。郡部線の起点は押切町駅(おしきりちょうえき)とされた。押切町駅は押切町電停のすぐ北北西辺り(今は名古屋市役所西区役所跡地となっている場所)に作られ、今度はそこから北西の各都市へ向けて郡部線が伸びていった。まず1910年に庄内川手前まで線路を伸ばし、その後橋を架けると、1912年以降は対岸の枇杷島橋駅(現・枇杷島分岐点)から一宮線・犬山線・津島線を開通させていった。一宮線は押切町~枇杷島橋~岩倉と進むと、西北西へ逸れて東一宮駅まで伸びる、郡部線の中心路線だった。犬山線は途中の岩倉から北へ分岐し、犬山まで伸びた。津島線は途中の枇杷島橋から西へ分岐し、須ヶ口~新津島へと伸びた。これらは後に今の名鉄の各路線となっていったが、経由駅を見れば分かる通り、今とは路線範囲の区切り方が違った。晩年(戦後)の一宮線は岩倉以西(岩倉~東一宮間)のみの支線的存在となり、後から建設された新一宮経由の名古屋本線との競合に負け、廃止されている。
1913年になると、押切町で押切線(市内線)と郡部線の線路を繋げ、郡部線が柳橋まで直通するようになる。つまり、当電停にも郡部線電車が来たが、郡部線電車は押切線内をノンストップで通過したため、ここも通過した。そして、柳橋電停の脇に柳橋駅を作り、今度はそこを郡部線の事実上の起点として発着ターミナルとした。市街地外れの押切町よりも市内の柳橋発着にした事で郡部線も便利になり、名電の路線網はますます発展した。
しかし、この頃になると名電の高運賃などへの市民の不満が爆発するようになり、柳橋駅はたった翌年に、暴動を起こした市民に放火された。他にも走行中の市内線車両など多くの車両が放火・破壊され、大規模な焼き討ち事件となった。名電へ反感を募らせた市民は、他の都市でも進みつつあった路面電車の市営化を望むようになった。この影響は数年続き、1922年には遂に名電が解体され、市内線は市電へ、残った郡部線は(初代)名古屋鉄道へと引き継がれた。その間、当電停は1918年にひっそりと廃止。
当電停の廃止・名電の市電化後の1923年になると、明道町(めいどうちょう)経由の新しい線路(明道町線)が開通。入れ替わりに、当電停のあった線路自体が1926年に廃止され、ここを通っていた郡部線直通電車も明道町経由の新線を通るように経路変更された。押切線開通当初(1901年)の周辺は田舎と都会の境目だったが、それまでの間に都会化し、道幅の狭かったここよりも広い明道町線経由の方が選ばれた(経路地図)。
上記の部分廃止を除けば、その後長らく1941年まで、押切線・押切町駅・柳橋駅共に存続した。この頃既に郡部線部分は現在の名鉄、市内線部分は名古屋市電となっていて、上記の直通は「名鉄が押切町駅経由で柳橋駅まで直通する」という形で続いていた。旧郡部線部分は名鉄の「西部線」、豊橋方面は「東部線」と呼ばれた。しかし1941年になると、名鉄側に新名古屋駅経由の新線である「東西連絡線」がデビュー。この時、従来の枇杷島橋駅~押切町駅~(市電押切線直通)~柳橋駅間の旧線は廃止され、枇杷島橋~現・東枇杷島~新名古屋~豊橋方面の新線、つまり現在の名鉄の線路が完成。市電自体はその後も市電として続いたが、押切町経由で市電へと直通して来ていた名鉄はその後新線を通るようになり、名鉄の市電直通は廃止。1947年頃の航空写真には、この時廃止された旧線の廃線跡が写っている。新線は庄内川を南東へ渡ると現・東枇杷島駅方面へクイッと向きを変えるが、旧線跡はそのまま直進して東へ進み、市街地の中をクネクネしながら押切町まで伸びている(旧線上にも旧・東枇杷島駅があったため、「現」「旧」と書いている)。
※上記に関する貴重な資料が多く載っているブログもある。
※そもそも「郡部」とは、市町村のうち町村が所属するあの「郡」の広がる地域の事。今でこそ田舎でも町村合併により市が誕生する事が増えたが、当時の日本ではごく限られた大都市のみが「市」となる事を許され、市になれない地方の田舎の町村域とは法律で厳格に区別された。市は郡に所属しないが、町村は郡へ属し、郡役場も置かれた。郡部線は、名古屋市内を走る「市内線」に対する対義語として、「郡部へと伸びる路線」という意味合いがあった。ただ、時代が進むと郡役場・町村役場の二重行政が問題視されるなどし、郡役場は廃止、郡の実体は消滅。今でも、郡は町村の住所において言い回しでのみ残る程度で、形骸化している。 ▼関連写真