千住新橋駅(旧称・廃駅)
最終更新: 2021/05/25
▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
千住新橋(旧称・廃駅) | せんじゅしんばし | | 東京都 |
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1928年 | 1968年 |
▼この駅を走っていた路線
▼備考
南から伸びて来た都電北千住線の、北端の終着だった電停。当初は「千住新橋」電停を名乗ったが、後に「千住四丁目」(せんじゅよんちょうめ)電停へと改称された。
北千住線は、日光街道に沿って千住大橋まで北上して来た三ノ輪線を更に北へ延長するように伸びていた線路で、千住大橋~千住仲組~北千住駅前~当電停へと伸びていた。千住仲組電停では、京成本線の千住大橋駅と乗り換えできた。「千住大橋」は、日光街道が隅田川を渡る橋の名前でもある。1594年に最初の千住大橋が架けられ、以来、奥州街道・日光街道側(北側)からの江戸の玄関口のような存在となった。
一方、当電停から見て北の方で荒川(荒川放水路)を渡る長い橋が、「千住新橋」という橋。但し、都電が走っていた当時の千住新橋は、荒川放水路の建設(後述)と並行して1924年に架けられた古いもので、戦後の地盤沈下や老朽化が深刻になったため、後に架け替えられている。今の千住新橋は、1983年に開通したもの。架け替え後の千住新橋は幅も広がり、車線が増えた。この時、周辺の日光街道の道路も拡幅されている。つまり、当電停があった当時の周辺の日光街道は、今よりも道幅が狭かった(それは、昔の航空写真を見ても分かる)。
都電北千住線には、21系統がやって来た。そのため、当電停は21系統の北端でもあった。21系統は水天宮前をスタートして北上した後、三ノ輪線・北千住線を通して直通したため、三ノ輪線の南千住六丁目電停も経由した。
※荒川放水路は1911~1930年にかけてやっと完成した巨大な放水路で、当電停の開業時にはまだ完成していなかった事になる。当初の荒川はそのまま隅田川へ流れ、むしろ荒川の下流部を「隅田川」と呼んでいる状態だった。しかし、度重なる水害に耐えかね、東京の市街地ど真ん中を流れる荒川を東へ迂回させる計画が遂に始まった。こうして、隅田川から東へ川を分岐させ、東京の市街地を東へ迂回するようにして、当時はまだ水田の広がる田舎だった葛西付近まで水路を掘った。この時、中川の流路もぶった切る事になったため、中川の古い流路は「旧中川」として切り離され、新しい流路は荒川放水路に沿う形で通された。また、増水時に水を放水路へ受け流し、隅田川へ過剰に水が流れ込まないようにするために、隅田川の入口には(初代)岩淵水門が設けられた。この時造られた赤色の初代岩淵水門は、後に老朽化で引退し、今は1982年に造られた2代目の水色の岩淵水門が隅田川の入口を担っている。初代岩淵水門は解体予定だったが、保存の要望が強く寄せられ、その歴史的価値が認められたため、今は「旧岩淵水門」として保存されている。その色から、初代岩淵水門は「赤水門」、2代目岩淵水門は「青水門」とも呼ばれる。
※荒川放水路の開削によって、元々そこを走っていた東武伊勢崎線の線路が経路変更を余儀なくされたりしている。今、堀切駅~鐘ヶ淵駅間辺りで東武伊勢崎線の線路が荒川放水路にギリギリ沿うように走っているのは、この経路変更の名残。
ところで、当電停があった当時、ここからほぼ真西の隅田川沿いに、千住火力発電所という発電所があった。今は帝京科学大学千住キャンパスになっている場所から見て南東側にその発電所はあり、4本の煙突があった。この煙突は見る角度によって本数が変わって見えたため、「おばけ煙突」と呼ばれて親しまれたが、1963年に発電所が停止し、翌年に解体された。1960年代の航空写真には、解体直前のおばけ煙突も写っている。こち亀におばけ煙突の回があったり、映画や小説にも登場したため、解体後でも知られている。 ▼関連写真