四条中新道駅(廃駅)
最終更新: 2022/09/07
▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
四条中新道(廃駅) | しじょうなかしんみち | | 京都府 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止*廃止年クリックで、 同年廃止の駅を検索 |
1932年 | 1969年 |
▼この駅を走っていた路線
▼備考
ここにはかつて、日本初の都市型トロリーバスである、京都市電無軌条線(むきじょうせん)が通っていた。ここはその停留所として1932年に開業。西へ2つ隣が西大路四条、東へ2つ隣が四条大宮だった。日本初のトロリーバスは1928年に開業した兵庫県の日本無軌道電車だったが、都市の市街地の中を走る都市型としては、京都のものが日本初だった。
当初は「京都市電無軌条線」として開業し、あくまで京都市電の一部とされていたが、初めから線路は無く、トロリーバスだった。しかし後に、より西へ建設された梅津線(うめづせん)と統合され、晩年は「京都市営トロリーバス梅津線」としての運行となった。
当停留所跡のすぐ東の方には山陰本線(嵯峨野線)が通っているが、これがトロリーバスの導入に関係している。また、現在はこの場所の地下に阪急京都線の地下区間も伸びているが、これも若干関係している(後述)。
付近には東西方向に四条通(しじょうどおり)という道路が伸びており、この四条通には既に、1912年に京都市電の四条線が開通していた。四条線はトロリーバスではなく、通常の路面電車だった。但し、四条線の線路は四条大宮以東であり、四条大宮よりもこちら側(西側)にはまだ、市電は開通していなかった。その原因は、当時はまだ高架ではなく地上を走っていた国鉄の山陰本線。市電も道路上の地上を走るため、四条大宮から西へ市電を伸ばそうとすると、市電と山陰本線の線路が平面交差してしまう。国鉄はこれを許可しなかったため、四条線は四条大宮以東に限られた。しかし1920年代になると、流石にこの四条線を四条大宮以西へ延伸する計画が練られ始めた。
しかしこの頃、大阪の方(天神橋駅)から延伸して来た新京阪鉄道(後に新京阪線、現・阪急京都線)という別の鉄道路線が、西から同じ場所目掛けて線路を伸ばそうとしていた。更に、この頃はちょうどこの場所の四条通を拡幅する工事も計画されていた。そのため、まずはこれらの工事を優先し、四条線の延伸計画は一旦保留となった。この時、当初は新京阪線もここに地上の線路を伸ばそうとしたが、やはり市電と同様の理由で山陰本線との平面交差を避けるため、こちらは地下に線路を通す事になった(住宅密集地の関係上、高架とするのも問題があった)。その後、四条通の拡幅工事と新京阪線の地下区間(現・阪急京都線の西院~大宮駅間)建設工事がセットで行われ、1931年に完了した。
※ところで、1931年に開通した上記の新京阪線の地下区間は、関西初の地下鉄道でもあった。これは全国で2番目でもあった。全国初は東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)の1927年、3番目は大阪市営地下鉄(現・大阪メトロ)の1933年。
一方、上記の工事によって1931年まで保留させられた四条線延伸計画は、保留の間にトロリーバス(無軌条電車)を建設する計画へと変わっていた。というのも、四条線を地上で延伸すれば山陰本線に阻まれ、高架は住宅密集地の関係でやはりNG、そして地下のスペースは、先の工事で既に新京阪線に取られてしまった。こうして、四条線をそのまま西へ伸ばす方法は全て閉ざされ、頓挫。しかしここで国鉄山陰本線側が、「レールの無いトロリーバスでの平面交差なら、地上で延伸してもOKですよ」と許可を出した。それを受け、四条線延伸計画はトロリーバスへと変更された。これが翌年(1932年)に開通し、西大路四条~当停留所~四条大宮間が京都市電の「無軌条線」というトロリーバス路線としてデビューした。これは上記の通り、日本初の都市型トロリーバスだった。
時代が進んで戦時中の1945年になると、無軌条線(西大路四条~四条大宮間)よりも更に西の梅津(うめづ)~西大路四条間に、京都市電の梅津線が新設された。戦時中だった当時、梅津含む京都市西部一帯に建設された軍需工場への輸送のために、梅津線が必要だったという。戦時中は資材が不足したため、蹴上線(けあげせん)という別の市電区間を休止・撤去し、そのレールや資材を持って来て梅津線が建設された。建設された梅津線はトロリーバスではなく、レールのある通常の路面電車だった。こうして、四条通上には西から順に、梅津線(路面電車)~無軌条線(トロリーバス)~四条線(路面電車)という風に京都市電の各路線が連なり、トロリーバス区間は路面電車区間に挟まれた。
四条通の各路線は、戦後に入っても暫くそのまま営業した。しかし、こうして間に線路の無いトロリーバス区間を挟んでいては運行上効率が悪かったため、合理化の一環で、1958年に梅津線もトロリーバス化された。これによって、梅津線と無軌条線は1つの「京都市営トロリーバス梅津線」として統合され、はるばる梅津(後に高畝町へ改称)~西大路四条~当停留所~四条大宮間が全てトロリーバス区間となった。統合されたこの区間は一体的に運行され、名実共に1つの路線に。その後1962年には更に西の松尾橋までトロリーバスが伸び、松尾橋~高畝町(たかぜちょう)~西大路四条~当停留所~四条大宮間がトロリーバスとなった。
しかしその後数年で、京都市営トロリーバスは他都市のトロリーバス同様に衰退し、1969年になると遂に廃止された。京都市電の大量廃止は1970年に始まったため、京都市営トロリーバスは、京都市電の大部分よりも一足早く廃止された事になる。
※上記の「蹴上線」は、1945年の撤去・休止後も、一度として復活する事は無かった。
※厳密には当初、「四条大宮」や「無軌条」などに使われる「条」という漢字は、「條」という旧字体が使われた。しかし、上記では便宜上新字体で統一してある。 ▼関連写真