新がつく駅地図手帖

四条河原町新京極駅(廃駅)


最終更新: 2022/09/06

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
立地*立地名クリックで、
その立地を検索
四条河原町新京極(廃駅)しじょうかわらまちしんきょうごく京都府
開業*開業年クリックで、
同年開業の駅を検索
廃止*廃止年クリックで、
同年廃止の駅を検索
1926年1977年

▼この駅を走っていた路線 

運営会社*虫眼鏡クリックで、
その会社を検索
路線*路線名クリックで、
その路線を検索
種別*種別名クリックで、
その種別を検索
京都市交通局京都市電四条線(17号系統)×路面電車
京都市交通局京都市電四条線(1号系統)×路面電車
京都市交通局京都市電四条線(20号系統)×路面電車
京都市交通局京都市電四条線(21号系統)×路面電車
京都市交通局京都市電四条線(7号系統)×路面電車
京都市交通局京都市電河原町線(12号系統)×路面電車
京都市交通局京都市電河原町線(13号系統)×路面電車
京都市交通局京都市電河原町線(15号系統)×路面電車
京都市交通局京都市電河原町線(18号系統)×路面電車
京都市交通局京都市電河原町線(2号系統)×路面電車
京都市交通局京都市電河原町線(5号系統)×路面電車

▼備考 

1978年までは、京都市内にも路面電車が走っていた(京都市電)。 この電停は1926年に京都市電河原町線の「河原町四条」電停として開業し、後に「四条河原町」電停に改称された。この電停のあった河原町線は河原町通を南北を走り、四条通を東西に走る四条線とすぐ南の十字路で交差していた。そこで1963年に、四条線にあった新京極電停を廃止してこの電停と統合し、四条線と河原町線の両方の停まる乗り換え電停に変わった。この時、「四条河原町新京極」電停という長い名前に変わった。この電停の区間は1977年に廃止後、バスに転じた。 京都市電は、碁盤の目状に広がる京都市街地を幅広くカバーする巨大な路線網を持っていた。四条通や河原町通・烏丸通・北大路通・竹田街道など、周辺の大きな道路には大抵、市電が通っていた(「新」の付く電停のあった路線に絞っても、四条線・河原町線・今出川線北大路線丸太町線伏見線などがあった)。更に、西の方には京都市営トロリーバスというトロリーバスまで走っていた。 しかし、1960~1970年代になると、全国の他の路面電車同様に廃止が始まった。特に、1969年に京都市営トロリーバスが廃止されてからの廃止の勢いは凄まじく、1970年以降は京都市電が大量廃止されていった。1978年に最後の区間が廃止され、京都市電は完全に消滅。当時は地元で廃止への反対運動もあったというが、京都市の方針に押し切られてしまったという。 ※otoohan.comというサイトでは、全盛期の巨大な路線網や系統を示した図を見る事もできる(敬称略)。また、津島軽便堂写真館にも詳しい情報が載っている(敬称略)。リンク先を見ると、京都市電内には京阪電車嵐電など他社線と平面交差する箇所も多かったといい、今となっては伊予鉄道ばかりが例示される平面交差(ダイヤモンドクロッシング)が、当時は当たり前のように存在していた事も分かる。 ※京都市電の歴史は1895年の京都電気鉄道(京電)に遡り、日本初の路面電車にして、日本初の電気鉄道だったという(日本初の区間は、後の京都市電伏見線にあたる)。首都が事実上東京へ移された事で、衰退しかけた京都を発展させるために始まった琵琶湖疏水の建設事業と、それを使った日本初の水力発電によって得られた電力で、京都電気鉄道は走った(但し、それは初期のみ。後に自前の発電所による電力へと移った後、最終的には電力会社から供給を受けるようになる)。 ※正式に営業した路線としては日本初。実験的なものも含めると、1890年に上野公園で開催された博覧会で、東京電燈がアメリカから持って来た路面電車車両を走らせたのが初。京都電気鉄道は日本初の路面電車だった事もあり、当初は今では考えられない程の原始的な運行だった。例えば当初は電停が無く、タクシーのように乗客が乗りたい・降りたいと言った好きな場所で停車していた上、信号も生身の人間(信号人)が目視により線路を監視する原始的な形態で、閉塞の概念すら無かったため、衝突事故が頻繁に起きた。人が電車の前を走り、電車の接近を知らせるというアナログな役職もあったという(告知人、通称「前走り」)。 ※厳密には、京都市電と京都電気鉄道はそれぞれ別々のルーツを持つ。当初はもちろん京都電気鉄道のみだったが、後から1912年になると、京都電気鉄道とは別個に、京都市(京都市電気軌道事務所、現・京都市交通局)によって京都市電が建設され始めた。この頃既に京都電気鉄道の路線網があったため、後から登場した京都市電は当然ながら競合した。ルートの重複する路線も多かったため、京都市電側は京都電気鉄道に対し、同じ線路を共有して路線網を整理する事を提案したが、そもそも競合のせいで減収した京都電気鉄道は京都市電を良く思っていなかったため、その交渉は難航。一応線路共有は実現したが、京都電気鉄道の線路は1067mmの狭軌だった一方、京都市電の線路は1435mmの標準軌だったため、共有部分は三線軌条となった(三線軌条が2つ並ぶ複線区間ではレールが計6本も並んだため、地元ではそれを「六線共用」と呼んだ)。その後も競合は続き、京都電気鉄道が経営難に陥ったため、京都市電(京都市)は京都電気鉄道を買収市営化する事にした。しかし、依然として京都電気鉄道は市営化を拒み、買収交渉も難航。数年の交渉の末、1918年にようやく市営化が決行された。こうして京都電気鉄道は京都市電の一部に組み込まれ、会社としては消滅した。買収直後は京都市電内に旧・京都電気鉄道部分と純粋な京都市電部分が混在したため、軌間も車両も統一できず、狭軌に因んで「N電」との呼称も生まれたが、その後は旧・京都電気鉄道の線路の多くが標準軌化・再編整理され、名実共に京都市電の一部となった。但し、堀川線というごく一部の路線のみがその工事から外れ、戦後も狭軌のまま運行を続けた。集電方式も京都電気鉄道以来の「トロリーポール」という古い形式で、車両も年代物だったため、京都電気鉄道時代の名残を留める路線として戦後に人気が出た事もあった。

▼関連写真 

 まだこの駅には関連写真がありません。
写真を追加 / ギャラリー