新がつく駅地図手帖

広野新開駅(旧称)


最終更新: 2022/09/08

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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広野新開(旧称)ひろのしんかい兵庫県
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廃止
1936年- - - - 年

▼この駅を走る路線 

運営会社*虫眼鏡クリックで、
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神戸電鉄粟生線(KB)普通鉄道
神戸電鉄[直通]有馬線(KB)普通鉄道
神戸高速鉄道[直通]神戸電鉄神戸高速線(南北線)地下鉄

▼備考 

駅番号KB49の、神戸電鉄粟生線(あおせん)の駅。1936年に、三木電気鉄道の西端の終着駅として、現在と同じ「広野ゴルフ場前駅」(ひろのごるふじょうまええき)の駅名で開業した。しかし、防諜の為か1942年にこの駅名へと改称され、1951年には再び元の駅名に戻された。 「広野新開」という旧駅名は、かつて周辺の地名が「美囊郡志染村広野新開」(みのうぐんしじみむらひろのしんかい)だった事による(厳密には旧字体で「廣野新開」)。恐らく、原義は「新たに開拓した土地」。しかしこの地名は、1954年に三木市(みきし)が誕生した時に「三木市志染町広野」(みきししじみちょうひろの)へと変更され、消滅している。 開業時及び現在の駅名は、南西側に広がる廣野ゴルフ倶楽部というゴルフ場から。このゴルフ場は長い歴史と風格のあるもので、当駅の出来る前の1932年には既に開業している。当駅が開業時から「広野ゴルフ場前」を名乗ったのも、その為。ゴルフ場建設用地を探していた関係者が広野新開の土地を訪れた時に、良い土地だと気に入ったらしい。ゴルフ場の入口は、当駅のすぐ目の前にある。駅舎・駅入口はゴルフ場のある西側のみに建っている為、東側の駅利用者は、駅南側に併設された歩行者専用踏切を使う。この踏切は改札外にあり、東西自由通路の機能も持つ。また、改札内にも島式ホームへ移動する為の構内踏切がある。 一方、駅の東側には、若干の宅地と、五百蔵池(いおろいいけ)という巨大なため池がある。この池も当駅開業時には既にあったようで、1891年頃に完成した淡河川疏水(おうごがわそすい、淡河疏水とも)という水路の一部。淡河川疏水は、ここから北東の方にある淡河川から取水して、西南西の方にある印南野台地(いなみのだいち、稲美町付近)方面へ農業用水を送る為のもので、印南野台地周辺にも無数のため池がある。疏水は途中で、御坂サイフォン橋という特殊な橋を通る。更に、つくはら湖から流れて来る山田川疏水(山田疏水)というもう1つの疏水もちょうど当駅付近の地下を通り、すぐ西のゴルフ場付近(宮ヶ谷調整池)で合流している。2疏水は合わせて「淡山疏水」(たんざんそすい)とも呼ばれる。ただでさえ周辺は瀬戸内気候で雨が少ない上に、台地ではなおさら水の確保が難しかった為、各疏水が建設された。 ※ちなみに、兵庫県は(淡路島も含めて)ため池の数が日本最多でもある。 五百蔵池の更に東側一帯には「緑が丘」という巨大なニュータウンも広がり、当駅の南隣も緑が丘駅となっている。 神戸電鉄粟生線は、粟生駅(あおえき)と鈴蘭台駅をはるばる東西に結ぶ路線。鈴蘭台以南の有馬線・神戸高速南北線の新開地駅へと直通する電車も多い。山がちな地形を越えていく為、全線にわたってカーブや急勾配が多く、勾配は最大で50にも及ぶ。 ※当駅~志染駅間(ここから北西の方)には、貴重な直線区間がある。 粟生線の最初の区間は1936年に三木電気鉄道(みきでんきてつどう)が開通させたが、当駅は当初、その西端の終着駅だったという。急いで建設した為、当初は電化工事が間に合わず非電化での開業だったが、翌年の1937年には無事電化され、線路も更に西へ延伸、当駅は途中駅となった。戦後の1947年になると、三木電気鉄道は有馬線・三田線の前身である「神戸有馬電気鉄道」と合併し、1949年には「神戸電気鉄道」、1988年には現在の「神戸電鉄」へと社名変更。その間、1952年に線路がはるばる粟生駅まで伸び、全通した。 ※旧社名の略から、今でも神戸電鉄を「神有」や「神電」と呼ぶ人もいるらしい。 戦後の粟生線沿線には幾つものニュータウンが造成され、その住民の通勤・通学路線となった(上記の緑が丘もその一部)。しかし、これらのニュータウンは高度経済成長期に一斉に造成・入居した事が災いし、当初は粟生線がパンクする程の混雑だったものの、1990年代には、住民が一斉に少子高齢化し始める事態に陥った(いわゆるニュータウンのオールドタウン化)。これによって、2000年代には沿線に沢山の人が住んでいるにも拘らずその殆どが粟生線に乗らなくなり、粟生線の客は激減してしまった。南側一帯には西神ニュータウンという別のニュータウンも造成され、そちらの方が栄えた事もあって人口が西神ニュータウンへと流出するなど、人口減も発生。 ※この教訓から、一部のより後発のニュータウン(ユーカリが丘など)では、敢えて一斉ではなくちまちまと入居させる事で、住民の世代をばらけさせ、高齢化を防ぐ方法が取られている。タワマンもそうだが、一斉に大規模に人を住まわせ過ぎてしまうと、過剰な混雑の後に過剰な高齢化が訪れ、両極端な結果となってしまう。 粟生線沿線ではバスとの競合も激しく、ニュータウンの端っこをかすめるだけの粟生線よりも、ニュータウンの内部まで入ってくれるバスの方が楽で、運賃も安く、本数も多いという厳しい状況となった。更に、北部に開通した山陽自動車道によって車社会化も進んだ。こうして粟生線は大赤字を抱えるようになったが、他路線も好調とは言えない状況だった為か、神戸電鉄自体が2005年に「準大手私鉄」から「中小私鉄」へと降格されてしまった。 その為、2009年に粟生線活性化協議会という組織が結成され、支援金を受けたり、粟生線乗車のPRを行ったりした。その間、遂に粟生線の存廃問題(廃線)の話が出始め、鈍かった地元民も動き出した。沿線の市や県も支援したが、いつまでも支援に頼る訳にはいかない為、粟生線と沿線のニュータウンの在り方そのものをなんとかして再活性化させる為に、割引切符の導入や、試験的な増便による社会実験など、現在でも様々な方法が模索されている。 ※粟生線の主要な途中駅である三木駅は、2018年に近所の住宅火災が燃え移って全焼してしまった。その後、2022年に新駅舎が再建された。 ※粟生線の東端では、西から順に「西鈴蘭台駅」「鈴蘭台西口駅」「鈴蘭台駅」と、似た駅名が連なる。これには、関西独特の駅名/地名接頭辞である「口」が関わっている。鈴蘭台西口駅は「鈴蘭台という街の西側玄関口」という意味合いなので、鈴蘭台駅に近いニュアンスとなる。一方、西鈴蘭台駅は「『西鈴蘭台』という名前の別の街」という意味になる為、遠いニュアンスとなる。 ※終点の粟生駅では、加古川線北条鉄道に乗り換えできる。また、かつては三木にも三木鉄道というのがあった。北条/三木鉄道はいずれも国鉄線だったものを1985年に三セク転換した路線で、共に加古川線と同じルーツを持つが、存廃の明暗が分かれた。

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