新桜台駅
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▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
新桜台 | しんさくらだい | 桜台 | 東京都 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止 |
1983年 | - - - - 年 |
▼この駅を走る路線
▼備考
駅番号SI38の、西武有楽町線の駅。東京メトロ有楽町線と区別するために、「西武有楽町線」という路線名には「西武」が含まれる。短い路線で、両端で繋がる各路線(東京メトロ有楽町線・東京メトロ副都心線・西武池袋線)と相互直通運転がされている。
1983年に西武有楽町線が開業した当初は小竹向原~当駅間のみの開業で、当駅が終着駅という部分開通状態だった。その後1994年になってやっと、練馬~当駅間が遅れて開通した事で西武有楽町線は全通し、今は途中駅となっている。しかし、1994年の時点ではまだ練馬~当駅間は暫定開通扱いの単線で、西武池袋線方面との相互直通は始まっていなかった。更に期間が開いて1998年になるとようやく暫定部分が複線化され、西武池袋線との相互直通が始まった。
「西武有楽町線」という奇妙な路線名は、元々はここが有楽町線の区間として計画されていた事による名残と言える。現在の有楽町線はあくまで和光市方面の地下鉄路線とされているが、計画上はむしろ練馬~当駅~小竹向原間(現・西武有楽町線)の方が有楽町線本体の一部となるはずで、和光市方面は別路線として計画されていた(ただ、この区間の建設は当初から営団(現・東京メトロ)ではなく西武鉄道が行う事とされていた)。つまり、有楽町線は元々、練馬経由で西武池袋線との相互直通を目論んだ地下鉄路線だった。
しかし、有楽町線の本来の目的地だった練馬駅は1983年時点ではまだ地上駅で、しかも駅周辺の再開発真っ只中という状況だった。元々練馬駅北側一帯には鐘淵紡績(現・カネボウ)練馬工場があったが、それが1970年に撤退し、その工場跡地を再開発するのに併せて、練馬駅の高架化も行う事になった。そのため、練馬駅の高架化が完了するまでの間、練馬~当駅間の開通はできなかった。そもそも元々ここに当駅を設置する予定は無く、線路はここを素通りする計画だったが、練馬駅の高架化工事が難航し、長期化する事が判明したため、急遽終着駅として当駅を設置し、先に開通できそうな当駅~小竹向原間を開業させ、少しでも運賃収入に繋げようとしたという。しかし、周辺住民にとって、池袋アクセスには当駅始発よりも既存の西武池袋線経由の方が圧倒的に運賃が安かったため、当駅は殆ど使われず閑散としていた。
その後も案の定、高架化は当初予定よりも大幅に遅れたため時間がかかり、練馬駅の下り線のみがまず1994年にやっと高架化完了。練馬~当駅間はこの時初めて、高架化完了したその下り線と繋がる単線分のみが暫定開業にこぎつけた。これが、上記の暫定開通の原因。その後1997年になってやっと上り線も高架化されたため、翌年(1998年)には練馬~当駅間が複線となり、本来の西武池袋線~有楽町線間の相互直通運転がようやく実現した。
しかし、このように練馬~当駅間の開通が練馬駅の高架化・再開発によって足踏みしている間に、有楽町線が和光市方面へといわば「浮気」し、西武池袋線よりも先に東武東上線との直通運転の方が始まってしまった(1987年)。こうして、本来は有楽町線ではなかったはずの和光市方面の線路が「有楽町線」と命名されてしまい、当駅経由の線路には「西武有楽町線」という奇妙な名前が付く事になった。和光市~小竹向原間も含めて「有楽町線」と命名する事は1982年の時点で既に決まってはいたが、それはその時既に、練馬方面が当分の間開通できそうにない事が分かっていたためと思われる。
練馬駅前の再開発はその間も進み、工場跡地には主に練馬文化センターや平成つつじ公園、練馬駅北口ロータリーなどが出来た。2003年には、北口ロータリー上にペデストリアンデッキも整備されている。
※副都心線・有楽町線の池袋方面(小竹向原以東)は、暫くの間ルートが重複するが、池袋駅では、有楽町線のホームと副都心線のホームが離れた場所にあり、その先はそれぞれが全く違う行先へと向かう。副都心線は東急線・横浜方面へと南下するのに対し、有楽町線は、新富町~新木場という風に東へ進む。 ▼関連写真