新動橋駅(廃駅)
最終更新: 2024/07/05
▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
新動橋(廃駅) | しんいぶりはし | 動橋 | 石川県 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止*廃止年クリックで、 同年廃止の駅を検索 |
1915年 | 1971年 |
▼この駅を走っていた路線
▼備考
当駅周辺はかつて、加賀温泉郷の片山津温泉や山代温泉へのアクセス拠点として大いに賑わった。しかし時代が進むと色々あり(後述)、1971年に加南線が全線廃止され、その時に廃駅。この駅名は、新抜き駅名と共に難読。駅のあった場所は、今は道路になっている。当駅~宇和野~山代~河南(かわみなみ)駅間は1963年以降「山代線」となったが、当初は当駅~宇和野駅間が「動橋線」で、宇和野~河南駅間は「連絡線」の一部だった。
「加南線」(かなんせん)は、北陸鉄道の山中線・粟津線・連絡線・片山津線・動橋線(山代線)の総称で、かつて加賀温泉郷の各温泉を結んだ鉄道路線群。加賀温泉郷は主に粟津温泉・片山津温泉・山代温泉・山中温泉の4つの温泉地から成るが、当初は各温泉を擁する町村が未合併でバラバラだったため、各町村は温泉客訪問による発展を狙って激しく競っていた。※但し、粟津温泉だけは既に小松市に合併済みだったため、あまり争いに関わらなかった。
1897年、動橋駅含め周辺で官設鉄道の「北陸線」(後の北陸本線)が開業し、北陸にも鉄道の時代が来ると、各温泉は鉄道アクセスでの集客を考え、各最寄り駅から自前で鉄道を敷いた。これらは初め、各々の温泉が自前で運営する馬車鉄道だったが、後に電化・経営統合されて「温泉電軌」となった後、1943年には戦時統合で北陸鉄道が担う「加南線」となった。
特に当駅周辺は2つの温泉地から近く、動橋駅から海側へは片山津温泉への片山津線、当駅から内陸側へは宇和野駅・山代温泉方面への山代線が出た。他に、大聖寺駅(だいしょうじえき)から山中温泉への山中線、新粟津駅から粟津温泉への粟津線もあった。「連絡線」は、(片山津線以外の)各路線を互いに繋いだ。その後暫く、1950年代は各温泉も加南線も温泉客で繁盛した。当時は各温泉への道路が未整備で、加南線が唯一のまともなアクセス手段だったことも加南線の繁盛の背中を押した。
しかし、1961年以降、国鉄の特急が北陸本線を走るようになると、事態が変わり始めた。特急があまりに多くの駅に停車すると速達性などの面で良くないため、国鉄は特急の停車駅を大聖寺駅・動橋駅のどちらかに絞ろうとしたが、それをどちらにするかでいざこざが起きた。その頃は既に周辺の町村は1958年の合併で(山中温泉を持つ山中町を除き)「加賀市」となっていたが、まだ人々の「加賀市民」としての意識は薄く、合併前の各町村の勢力が残っていた。特に、大聖寺駅を持つ旧・大聖寺町勢力と、動橋駅を持つ旧・動橋町勢力が、自分達の駅に特急を停めさせるために激しく対立した。これがあまりに泥沼化したため、国鉄は困り、結局なんとかして両方の駅に停めていたが、そのせいで特急が遅くなり、特急利用客も困った。
そうこうしているうちにモータリゼーションと道路整備が進み、車やバスで各温泉へ行く人が増えた。それを受け、各温泉も加南線に見切りを付け始め、自前でバス送迎をするようになっていった。その上、それぞれバラバラな駅から出ている加南線と、それによる旧町勢力の特急停車駅争奪戦にうんざりしていた国鉄は、それらに縛られること無く、どこか1駅から一気に全ての温泉へのバスを直行させるという新しい計画に転換した。こうして加南線はだんだんと不要になり、廃止されていった。
ただ、各温泉へのバスの拠点となるその「どこか1駅」をどこにするかですら各勢力は対立したため、国鉄はきりがないこの対立に痺れを切らし、どの温泉の最寄り駅でもない一番無難な場所にあり、各温泉の利害も公平な第三者である「作見駅」(さくみえき)を、バスの拠点にすると決めた。これによりまた一悶着あり、暴動一歩手前の騒ぎすらあったが、遂に1970年、作見駅が「加賀温泉駅」に改称され、実際に加賀温泉郷の玄関口となり、今に至る。一方、当駅もあった動橋駅周辺は「加賀温泉郷の玄関口」という役割を失い、閑散としていった。もっとも、この閑散と衰退を恐れていたからこそ動橋駅側は争ったのだが、結局争いすぎて多方に迷惑がかかった結果とも思える。
加賀温泉駅には2024年春、北陸新幹線の敦賀延伸時に新幹線の駅も設置された。国鉄が折衷案としてうまいこと加賀温泉駅を作ったお陰で、旧町意識に縛られることの醜さに人々が気付き、頑固な旧町勢力が白い目で見られる良いきっかけとなった。更に、今となっては加賀市が誕生してから相当の年数が経ったため、そもそも旧町意識にこだわる人はほぼ居なくなった。2005年には、1958年の時点で周辺町村との合併を拒んでいた山中町も加賀市と合併し、今や周辺は完全に加賀市となった。こうして、新幹線駅を作る時には各勢力の対立がぶり返すことは無かった。ただ、新幹線延伸後の周辺の北陸本線はIRいしかわ鉄道へ三セク転換され、大聖寺駅以西(大聖寺~県境を跨いだ敦賀駅間)はハピラインふくいとなった。また、新幹線の延伸区間には越前たけふ駅も新設。
※加南線と加賀温泉郷をめぐったこの一連の顛末は、akamomo鉄道・交通チャンネルの動画が詳しい(敬称略)。また、懐想「石川の鉄道」では、加南線の全体像や、当時を写した貴重な写真などが見られる(敬称略)。 ▼関連写真