新がつく駅地図手帖

新渡駅(廃駅)


最終更新: 2022/09/23

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新渡(廃駅)しんわたし(?)佐賀県
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1909年1931年

▼この駅を走っていた路線 

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祐徳軌道支線×軽便鉄道

▼備考 

祐徳軌道(ゆうとくきどう)の支線の終点だった停留所。この支線は、ここからすぐ南の方に広がる鹿島(かしま)の街の方から北上して伸びていた。 当停留所名は「百貫下」や「百貫渡」だった時期もあるらしいが、資料によって表記が揺れ、記録は曖昧。すぐ北東の塩田川(しおたがわ)には百貫橋(ひゃっかんばし)という橋が架かるが、これは1927年に初めて架けられたもので、当停留所の開業時にはまだ橋は無く、川を渡るにはここから西北西の古渡(ふるわたし)地区にある渡し舟を使った。これは推測でしかないが、「新渡」や「百貫渡」は祐徳軌道開通後に乗換利便の為当停留所付近に新設された渡し舟の事を、「百貫下」は架橋後の百貫橋のたもと(下)の事を意味する可能性はある。 祐徳軌道は、ここから北西の方の武雄駅(現・武雄温泉駅)周辺と、鹿島の街(現・鹿島市)を結ぶ目的で建設された軽便鉄道。更に、鹿島の街の南の方にある祐徳稲荷神社への参詣路線の機能も持った。途中、北鹿島停留所から北東の方へ、当停留所方面の支線も分岐した。そのルートは、減速進行の図が分かりやすい(敬称略。肥前電気鉄道の図に、祐徳軌道も描かれている)。線路は本線が1904~1907年にかけて、支線が1909年に建設されたが、最初の区間の開通時は「祐徳馬車鉄道」という馬車鉄道だった。後の1907年に、「祐徳軌道」へと改称。 現在の鹿島市には長崎本線の肥前鹿島駅があるが、祐徳軌道の建設当時はそんなものは無く、長崎本線は武雄・早岐経由だった(厳密には「九州鉄道」という私鉄だったが、これが1907年に国有化された後、1909年に「長崎本線」と命名された)。つまり、鹿島には鉄道が無かった。その為、鹿島の鉄道アクセスの為に祐徳馬車鉄道が誕生。軌間は914mmの簡易なもので、動力として初期には社名の通り馬が使われたが、後に「駒吉機関車」というディーゼルエンジン車が使われた。駒吉機関車はいわゆるポンポン船に使われる焼玉エンジンで動いたが、その故障の多さやパワー不足により、更に後には普通のSLが走った。 しかし時代が進むと、武雄経由だった長崎本線が鹿島(肥前鹿島)経由の新線へと変更される事が決まり、1930年にはその部分開通で線路は肥前山口駅(現・江北駅)側から肥前浜駅まで到達(部分開通時の路線名は「有明線」)。競合する祐徳軌道は経営難に陥った。それにより、長崎本線新線を建設する鉄道省から補償を受け、祐徳軌道は1931年に廃止。一方、祐徳軌道はバス事業も行っており、そちらの経営は無事だった為、バス部門だけを「祐徳自動車」という別会社として分離独立させた。祐徳自動車は今も、付近を担うバス会社として存続している。 問題の肥前鹿島経由の長崎本線新線は1934年に全通したが、これは肥前山口駅から南へ分岐し、有明海を望みながら肥前鹿島・肥前浜・太良(たら)などを経由して諫早駅で旧来の長崎本線へと合流するものだった。一方、旧来の長崎本線は佐世保線・大村線となった。こうして遂に鹿島にも国鉄線が通る事になった為、以後、肥前鹿島は長崎方面への主要な経由地として発展。肥前鹿島駅は博多~長崎間を結ぶ特急「かもめ」の停車駅にも選ばれた。 しかし、うんと時代が進んで2022年になると、武雄(武雄温泉)経由で開通した西九州新幹線が肥前鹿島を苦しめる事になった。 肥前鹿島経由の長崎本線新線は1930年代の技術で開通したものであり、特に肥前鹿島・肥前浜よりも南の区間はあまりにカーブの多いぐにゃぐにゃした線路となっている。この区間では特急かもめもあまりスピードを出せず、本領発揮できなかった。しかもこの区間は単線で、途中の交換可能駅や信号場で対向車を待たねばならなかった事もあり、長年輸送力のネックになっていた。西九州新幹線はこれらを解決した上位の存在だった為、その開通と同時に、このぐにゃぐにゃ区間を経由する特急は全廃された。しかも、そこを経由する普通列車の本数も元々少なく、電化設備は特急の為だけにあるようなものだった為、肥前浜駅以南が非電化化された。つまり、ぐにゃぐにゃ区間は特急無しの単線非電化という、ただのローカル線状態となってしまった。これにより、長崎方面への鉄道アクセスは肥前鹿島で分断されたも同然となり、肥前鹿島は「長崎方面への主要な経由地」という地位を奪われた。いわば、かつて武雄経由だった長崎方面への鉄道アクセスルートが、再び武雄経由へと戻った事になる。一応、特急かもめ廃止後も代替として肥前鹿島以北(博多方面)は特急「かささぎ」が走るが、最盛期に比べると肥前鹿島駅の特急は激減。しかも、肥前鹿島以南(長崎方面)への特急が皆無となり、肥前鹿島から長崎へ通勤通学していた人が途方に暮れる事態に。ぐにゃぐにゃ区間は元々利用者も少なく、特急廃止は仕方ない面もあったが、今後の肥前鹿島の在り方が不安視される。一応、暫くの間はぐにゃぐにゃ区間含め長崎本線は三セク転換されずJR運行のまま維持される為、観光路線への転向など何かしらの策は取られると思われる。 歴史を振り返ると、祐徳軌道を苦しめた長崎本線新線を、西九州新幹線が苦しめている事になる。諸行無常を感じる。 ※上記説明の「新線」は、普段とは異なる意味の便宜上の表現。普段「長崎本線の新線」と言うと、長与(ながよ)経由の旧線に対して1972年に開通した長崎トンネル・市布(いちぬの)経由の線路を指す。 ※祐徳軌道の開業当時、鹿島の街は藤津郡(ふじつぐん)の「南鹿島村」や「北鹿島村」などの幾つかの村に分かれていた。1912年には南鹿島村が「鹿島町」、北鹿島村が「鹿島村」となり、1954年にはこれらが合併して「鹿島市」となった。これは、茨城県の「鹿嶋市」とは表記が異なる。 ※上記の「九州鉄道」は、西鉄天神大牟田線の前身である九州鉄道とは別会社。上記のが初代で、天神大牟田線のは2代目。この初代九州鉄道は、現在の鹿児島本線や長崎本線・日豊本線の一部・佐世保線・大村線など多くの線路を建設した鉄道黎明期の会社で、九州初の鉄道だった。現在のJR線にあたる多くを建設し、後に国有化されたという点で、関西鉄道や日本鉄道にも似ている。この九州鉄道の旧本社ビルは、九州鉄道記念館の建物として現存する。

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