新がつく駅地図手帖

池上新田駅(鶴見臨港鐵道・廃駅)


最終更新: 2020/06/20

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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池上新田(廃駅)いけがみしんでん神奈川県
開業*開業年クリックで、
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1925年1937年

▼この駅を走っていた路線 

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鶴見臨港鐵道軌道線×路面電車

▼備考 

1925年に、海岸電気軌道によって開業した停留所。当停留所は、今昔マップ(敬称略)に収録の1927~1939年の地図でも見る事ができる。その地図では、総持寺駅(後述)が「そうぢじまへ」とある。 海岸電気軌道は、川崎駅(現・京急川崎駅)~大師駅(現・川崎大師駅)間で行き止まっていた大師線を海側へ延伸するような形で、大師~大師河原(現・大師橋駅付近)~出来野(できの)~当停留所~田辺新田下新田~総持寺間をはるばる結んでいた路面電車。総持寺駅は現在の京急鶴見~花月総持寺駅間の場所にかつてあった廃駅で、そこで京浜電鉄線(現・京急本線)と乗り換えできた。大師線も川崎駅で京浜電鉄線と繋がっていた為、大師線も含めた全体としては、川崎~(大師線)~大師~(海岸電気軌道)~総持寺という風に、京浜電鉄線から分岐した線路が海側を逆C字状に通ってからまた合流するという形だった。当停留所付近では、およそ現在の首都高や産業道路に沿ったルートを走っていた。 このルートの原形は、京急の前身である京浜電鉄が1915年頃に計画していた、生見尾線(うみおせん)という未成線にあるという。生見尾線は総持寺駅~(海沿いを北上)~(多摩川や穴守線を渡ってなお北上)~現・大森町駅まではるばる繋げるという壮大なものだった。穴守線は、現・空港線。しかし、計画された当時の海沿いはド田舎で、ろくに工場も出来ていなかった為、採算性が問題視されてこの計画は却下された。生見尾線の建設を許可されなかった京浜電鉄は、仕方なく多摩川を渡るルートを断念して計画を縮小し、既にあった大師線と繋げる事にした。また、京浜電鉄はこの新線を運営する子会社として海岸電気軌道を設立。建設中に関東大震災があった為開業は遅れたが、無事1925年の開業にこぎつけた。 しかし、1925年に開業した海岸電気軌道は早々に経営難に陥った。この頃、沿線のおよそ南半分(総持寺側)にはやっと工場が出来つつあったが、不景気が襲って工場客の利用が減っていた。更に、肝心のその工場沿線では、完全に競合する鶴見臨港鉄道本線が旅客営業を始めてしまった為、ただでさえ減った工場客を殆ど奪われてしまった。しかも、当停留所含む北半分(大師側)は未だに田舎で、客自体がほぼいなかった。 経営難の上にスピードや輸送力も劣る路面電車の海岸電気軌道は、鶴見臨港鉄道に全く太刀打ちできなかった為、1930年にはもはや経営を諦め、鶴見臨港鉄道に自社線を譲渡する事になった。こうして、海岸電気軌道は京浜電鉄の手元を離れて鶴見臨港鉄道に吸収され、会社は消滅。元からあった鶴見臨港鉄道本線に対し、海岸電気軌道だった部分は「鶴見臨港鉄道軌道線」となった。つまり、その後の鶴見臨港鉄道は、自社線内に成績の良い本線と、競合する経営難の軌道線を両方持つ事になった。しかし、それでも相変わらず、軌道線の成績は改善しなかった。 ただ、数年経って1932年になると、未だに田舎だった当停留所付近にも集客のチャンスが来た。当停留所の北隣は塩浜停留所だったが、その近くに競馬場が出来た。これは2代目(第2次)の川崎競馬場で、競馬開催時にのみ、塩浜~出来野間に臨時で競馬場前停留所も開設された。この競馬場は、上記の今昔マップにも描かれている。その後は沿線も徐々に市街地化し、客もゆっくりと増えていった。 しかし、それでも大して軌道線の成績は良いとは言えなかった。1937年になると遂に、軌道線が通っていた道路を拡幅して通称「産業道路」を整備する工事が行われ、この時に軌道線の線路用地は潰された。こうして、最後まで成績の振るわなかった軌道線は廃止された。この時、京浜川崎(現・京急川崎)から大師線経由ではるばる繋がっていた線路は再び川崎大師駅止まりに縮んだ。その後線路が再び小島新田経由で再延伸されるのは、更に後の時代。 ※産業道路の整備はその後も進み、1939年には多摩川を渡る大師橋も開通した(現在の大師橋は2代目)。今の産業道路の直上には、首都高の高架も通っている。 ※線路が小島新田経由で再延伸された時(1944年)は、子会社は設立せずに直接大師線を延伸する形となった。この時、川崎大師駅~旧・海岸電気軌道の大師河原停留所間の線路用地は、海岸電気軌道の廃線跡を流用して大師線の線路が建設された。しかし、その先は海岸電気軌道が南へカーブして産業道路・出来野方面へ逸れていた一方、大師線は真っ直ぐ小島新田へと向かった為、今も大師橋駅の真南付近に海岸電気軌道のカーブする廃線跡が道路として残っている。この再延伸時に、大師河原停留所跡地付近に産業道路駅(現・大師橋駅)が出来た。 ※海岸電気軌道については鈴木写真変電所が、鶴見臨港鉄道軌道線となった後については日本鉄道旅行地図帳BLOGが詳しい(いずれも敬称略)。 ※1950年代になると、同名の停留所が違う場所に出来ている。

▼関連写真 

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