新弥生駅(廃駅)
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▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
新弥生(廃駅) | しんやよい | 弥生 | 北海道 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止*廃止年クリックで、 同年廃止の駅を検索 |
1959年 | 1989年 |
▼この駅を走っていた路線
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| JR北海道 | 天北線× | 普通鉄道 |
▼備考
天北線(てんぽくせん)は、ここからうんと南の方にある宗谷本線の音威子府駅(おといねっぷえき)から分岐し、敏音知(ぴんねしり)・中頓別・当駅などを経由して浜頓別駅まで行き、そこから先は大体オホーツク海に沿って、鬼志別(おにしべつ)・南稚内駅まで続いていた路線。線路は南稚内で再び宗谷本線へと合流し、列車は宗谷本線の稚内駅まで直通していた。旧国名の天塩(てしお)と北見(きたみ)にあたる地域を走る路線だった。
急行「天北」などといった優等列車も走ったため、主要な路線の1つでもあった。札幌~稚内間を宗谷本線経由で結ぶ急行は幾つかあったが、急行「天北」はその1つで、宗谷本線の途中で天北線・浜頓別を経由した事から、アナウンスなどの案内時には他の急行との区別のため、「浜頓別回り、稚内行き」などと案内されていた。この急行は、日中に走るのに青い寝台車を連結していたため、さながら「昼間に乗れるブルートレイン」としても知られた。
しかし、ここまで主要路線としての風格があったにも拘らず、1987年に国鉄からJR北海道へと転換された後、1989年に全線が廃止され、バスに転じた。長大路線で急行も走ったのに三セク転換も無く廃止された路線は、国鉄・JR史上稀だという(羽幌線も似た運命を辿った)。かつての利用客の中には、「まさか天北線が廃止される日が来るとは」と驚く人も多かった。
ここは、国鉄時代は「仮乗降場」、JR北海道になってからの数年は格上げされ「駅」として営業していた。さいきの駅舎訪問には、当駅の現役当時(廃止直前)の貴重な写真が載っている(敬称略)。
※簡易な設備しか無い停車場を、国鉄は「仮乗降場」(かりじょうこうじょう)と呼んで分類し、「駅」とは区別していた。これは国鉄特有の区分・概念で、正式な「駅」を設置する水準にすら及ばない程の田舎ではありつつも、近隣に住む(もしくは近隣施設を使う)ごく少数の特殊な利用者の便宜を図るために設置された、駅よりも1つ格下の施設だった。例えば、線路がほぼ無人地帯を通過するものの、沿線にほんの数人だけが住む家があって、その利用者のために設けるなどといった経緯で誕生した。住民の要望で設置される事もあった。駅以下の施設だったため、設備は必要最低限のものしか用意されず、ドア1つ分の長さしか無い朝礼台のような乗り場がよく見られた。また、駅ではないためか、仮乗降場の隣駅の駅名標にはその名が表記される事は無かった。例えば、当仮乗降場の北隣は下頓別駅(しもとんべつえき)、南隣は寿(ことぶき)仮乗降場、南へ2つ隣には中頓別駅(なかとんべつえき)があったが、下頓別駅の駅名標には南隣の駅として中頓別駅が書かれ、中頓別駅の駅名標には北隣の駅として下頓別駅が書かれていた。つまり、間にあった当仮乗降場と寿仮乗降場は無視されていた。仮乗降場は国鉄特有の概念だったため、1987年のJR発足時にはこの区分は廃止され、各仮乗降場も一斉に正式な「駅」へと格上げされた。ただ、それは書類上の話であって、設備としては仮乗降場時代のまま変わらないというケースが大半だった。仮乗降場の例として他に、新士幌仮乗降場・新七重浜仮乗降場・新栄野仮乗降場・八ツ森仮乗降場などがあった。
※天北線の浜頓別駅から南東へは、北見枝幸駅(きたみえさしえき)まで興浜北線(こうひんほくせん)という路線も分岐していた。天北線と同様にオホーツク海に沿って走ったが、天北線は浜頓別から北西へ向かったのに対し、興浜北線は南東へ向かった。当時は名寄本線の興部駅(おこっぺえき)からも雄武駅(おむえき)まで興浜南線が向かって来ており、無事両線が繋がれば興部~浜頓別間の「興浜線」となる予定だったが、全通は叶わず、未成線となった。北見枝幸駅からは更に、内陸の宗谷本線美深駅(びふかえき)へと繋げる「美幸線」(びこうせん)も計画されたが、それも部分開通のみで全通せず、未成線に終わった。
※1945年までは稚内から更に北の南樺太まで鉄道連絡船が出ていて、南樺太にも日本国営の鉄道路線が存在したという(そこには新問駅などもあった)。 ▼関連写真