武蔵新田駅
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▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
武蔵新田 | むさしにった | | 東京都 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止 |
1923年 | - - - - 年 |
▼この駅を走る路線
運営会社*虫眼鏡クリックで、 その会社を検索 | 路線*路線名クリックで、 その路線を検索 | 種別*種別名クリックで、 その種別を検索 |
| 東急電鉄 | ■東急多摩川線(TM) | 普通鉄道 |
▼備考
1923年に「新田駅」として開業後、1924年にこの駅名に改称された。よくある、「旧国名+地名」のタイプの駅名。東急多摩川線の駅で、駅番号TM05。
東急多摩川線は、多摩川駅と蒲田駅を結ぶ路線。この路線名は、かつての東急玉川線(玉電)や、既存の西武多摩川線との混同を防ぐ為、正式路線名に「東急」を含めて区別している。2000年までは、目黒駅~多摩川園駅(現・多摩川駅)~蒲田駅間を結ぶ「目蒲線」(めかません)という路線だったが、多摩川駅を境に目黒線と東急多摩川線に分割され、目黒線は東横線と共に新丸子・日吉方面を担う別路線となった。これは、目黒駅以北の南北線・三田線との直通開始によるもの。こうして、当駅含む蒲田方面のこの線路は日吉方面の大動脈から取り残される形となってしまったが、近年は後述の蒲蒲線計画で注目を集める。
目蒲線は、東急の前身である目黒蒲田電鉄(めぐろかまたでんてつ)時代からの路線だった。その為、東急の創業路線とも言われた。目黒蒲田電鉄は元々、現在の田園調布や洗足(せんぞく)の住宅地を開発・販売していた田園都市(株)という会社の一部(鉄道部門)だったが、それが1922年に子会社として独立したものだった。田園調布駅は、多摩川駅の北隣にある。
当初、東京市街から南南西にあたる周辺一帯にはまだ土地が多くあり、そこに、都会過ぎず田舎過ぎない、両要素の融合した理想的な都市形態である「田園都市」を建設する事になった。これはイギリス人の都市計画家のエベネザー・ハワード(PDF)が唱えた都市形態・概念で、これを日本にも実現しようとする動きが渋沢栄一などによって始められ、田園都市(株)もその為に設立されていた(1918年)。田園調布(当初の宅地名は「多摩川台」)や洗足はその一環で建設され、田園調布の「田園」とは田園都市の田園を指す。本家では「Garden City」と言ったが、このGardenを「田園」と訳した。1923年の関東大震災時には、被害の多かった下町に比べて田園都市は被害が少なかった為、ますます人気が出た。これによって沿線は発展し、以降、目黒蒲田電鉄は田園都市と共に成長していく事になる。
※上記の田園都市は戦前のもので、戦後の多摩田園都市とは別の計画。しかし、全く無関係という訳でもなく、共に東急系列の事業であり、根底にある理念も共通している。
発展と共に、周辺の線路も増えていった。まず、1926~1927年にかけて、目黒蒲田電鉄の姉妹会社である(初代)東京横浜電鉄(現・東横線)の線路が開通し、これが目蒲線と繋がって直通し始めた。更に、目黒蒲田電鉄は1927~1929年にかけて新たに大井町線も建設した他、1928年になると、今度は逆に目黒蒲田電鉄が、親会社だった田園都市(株)を吸収合併した。
その後、目黒蒲田電鉄は周辺の他の鉄道会社との合併をも経て、巨大化していった。1934年には池上電気鉄道(池上線・新奥沢線の前身)を合併。更に、1939年には姉妹会社として共に発展してきた上記の(初代)東京横浜電鉄とも合併。合併前から元々、両社共に同一人物の五島慶太が経営を司っていた。以降は、目黒蒲田電鉄自身が2代目の「東京横浜電鉄」を名乗った後、これが「東京急行電鉄」へと改称され、後に現在の東急へと成長した。
ちなみに、蒲田駅と京急蒲田駅を繋ぐ、蒲蒲線(新空港線)を造る計画がある。蒲田駅と京急蒲田駅は地味に離れているのに鉄道が無くて不便な為、それらを繋ぐと共に、東急線と京急線を繋げる事で羽田空港アクセスなどを良くする構想。しかし、両線は軌間が違うのでそのままでは直通させられず、FGTなどを使って何とかできないかという話もある。但し、FGTは新幹線用車両の開発に失敗するなど日本では技術的に発展途上なので、当面の間はFGTを導入できない。その為、まずは両駅を繋ぐのみとする計画が進んでおり、その開通は2030年代を目指す。東急多摩川線を京急蒲田駅の地下まで伸ばす事で繋ぎ、そこで乗り換えさせる。
また、赤羽駅から田園調布駅まで、おおよそ環八のルートを通ってはるばるエイトライナーという新しい鉄道を走らせる構想がある。エイトライナーと東急線・蒲蒲線は、空港アクセスを大きく改善すると言われる。 ▼関連写真