新港信号場(廃信号場)
最終更新: 2022/04/25
▼この信号場について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
新港(廃信号場) | しんみなと | | 山口県 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止*廃止年クリックで、 同年廃止の駅を検索 |
1960年 | 1960年 |
▼この信号場を走っていた路線
運営会社*虫眼鏡クリックで、 その会社を検索 | 路線*路線名クリックで、 その路線を検索 | 種別*種別名クリックで、 その種別を検索 |
| 日本国有鉄道(国鉄) | 山陽本線 | 普通鉄道 |
▼備考
かつて、大竹~岩国駅間に一時的にあったという、山陽本線の信号場。この信号場の設置期間は短く、1960年4月18日~同年7月25日までのほんの短い間だけあった。周辺には今も、「山口県岩国市新港町」(しんみなとまち)という地名が残る。 ※現在は大竹~岩国駅間に和木駅(わきえき)があるが、和木駅は2008年開業の新しい駅のため、当時は無かった。また、ここは山口県の端に近く、川の向こうの大竹駅は広島県となっている。
山陽本線の起点神戸駅からの営業キロが343.3kmという点以外に残っている情報が乏しいため、当信号場の位置は推測。当時の山陽本線には他にも、当信号場とほぼ同時期に一斉に設置され、一斉に短期間で廃止された信号場群が多くあった。
当信号場含むこの信号場群が設置された目的や、すぐさま廃止された理由は記録に乏しいが、一説によると、当時進行中だった山陽本線の電化工事が関わっていた可能性が高い。
当時、山陽本線は大規模な電化工事の真っ只中で、長大な山陽本線を端から端まで急ピッチで電化する工事が国鉄によって進められていた。国鉄は1960年代当時、車両の動力をSLなどといった旧態依然としたものから脱却し、電気によるモーター(電車)やディーゼルエンジン(気動車)等へと一斉に切り替える「動力近代化計画」を進めており、その一環だったと思われる。窒息やスス汚れなどの原因となるSLの煤煙から解放されるという意味で、「無煙化計画」(むえんかけいかく)とも呼ばれた。
※ちなみに、これによってSLが一斉に廃止され、日本からSLが姿を消しつつあった事から、SLは鉄道愛好家や世間から一斉に注目を浴びるようになった。SLの保存運動もこの頃から起こるようになったが、廃止は止まらず、1975~1976年にかけて、SLは遂に国鉄から全廃(1975年に最後のSL旅客列車が北海道から引退、翌年には業務用の運行も終了)。そんな中、山口線でのSL復活運転の機運が高まり、1979年に復活・動態保存による運行が無事実現したものが、SLやまぐち号だった。
山陽本線の場合、関門トンネルや神戸近郊など重要な区間は戦前から部分的に電化されていたが、1958~1964年にかけて、残りの非電化だった部分も一斉に電化する事になった。その際、主にトンネルがその支障となった。電化のためには線路の上に架線柱を建て、架線を吊るす必要があるが、一部のトンネルは電化など考慮されていない時代に掘られた古いものであり、トンネルの天井が低すぎて架線を通すスペースが無かった。そのため、トンネルの床を掘り下げて天井高を稼ぐ工事が行われたが、工事中も列車の運行を止めるわけにはいかないため、2本の複線トンネルのうち片方へ列車を通し、もう片方で工事を行うなり、新トンネルを新たに1本掘ってそこへ列車を通している間に旧トンネルで工事するなどの工夫がなされた。その際、工事部分は一時的に線路が単線となるため、そのための信号場が必要になった。当信号場もトンネルが関わっており、ここからすぐ南にある短いトンネル(新港トンネル)の工事により設置されたと思われる。
当信号場のある横川~大竹~(当信号場)~岩国~周防富田~小郡駅間の電化が完了したのは1964年で、今回の山陽本線の一斉電化工事の中では最も電化が遅かった。この区間の電化をもって、ようやく山陽本線は全線電化を達成した(※但し、山陽本線の支線の1つである和田岬線を除く。和田岬線の電化だけは、2001年まで遅れた)。しかし、当信号場はそれよりも早く無くなっている。その理由は単純で、おそらくすぐ南にある新港トンネルの電化対応工事は先に1960年に完了したが、電化自体は区間内の他のトンネルの工事や車両の準備なども全て済んでからでないと完了しなかったためと思われる。
※山陽本線の複線化に関しては、電化よりも早い1944年に既に完了している。
※千葉県にある同名の信号場とは無関係。
※「電化や複線化などといった線路の改良工事に伴って一時的に設置された信号場」という点で、羽越本線の新川信号場も似ている。 ▼関連写真