新がつく駅地図手帖

新港信号場


最終更新: 2023/02/25

▼この信号場について 

駅名読み新抜き駅
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新港(信号場)しんみなと千葉県
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廃止
2000年- - - - 年

▼この信号場を走る路線 

運営会社*虫眼鏡クリックで、
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種別*種別名クリックで、
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JR東日本京葉線(JE)普通鉄道
JR貨物京葉線貨物

▼備考 

稲毛海岸駅千葉みなと駅の間にある信号場。ここでは複線の京葉線の下り線路から待避線が分岐し、線路が3本に増えている。主に下り(蘇我方面)の貨物列車がこの待避線へ入り、下り旅客列車へと道を譲って追い抜かれ待ちする為に使われる。付近の線路は稲毛海岸側が高架、千葉みなと側が地上になっており、線路は千葉みなと側から徐々に勾配を登るが、上下線の間に挟まれた待避線のみが一足先に高架となり、両脇の上下線は遅れて緩やかに登る。これは、かつてそこで貨物列車が立体交差できるようにしようとした名残(後述)。 2000年までは「千葉貨物ターミナル駅」という貨物駅がここにあったが、京葉線での貨物運行の停止に伴い、廃駅に。しかし、同年に貨物運行が再開(後述)されたので、その跡地の一部を使ってこの信号場が作られた。跡地は広く、この信号場の他にも、再開発によって大型スーパー群や付近の倉庫群などもその跡地に建った。1990年頃の航空写真を見ると、廃止前の晩年の千葉貨物ターミナル駅が写っている。 かつてあった千葉貨物ターミナル駅は、京葉線の中でも最も早く開業した区間の北西端にあった。1975年に、千葉貨物ターミナル駅~都川信号場(みやこがわしんごうじょう)~蘇我駅間が貨物線として開通したが、これは当初、東京外環状線という壮大な貨物線の一部として建設されていた。しかし、後に貨物限定だった東京外環状線計画が旅客化も踏まえた計画へ変更され、これが後に現在の京葉線となっている。 また、この時の千葉貨物ターミナル駅~都川信号場~蘇我駅間のうち、都川信号場~蘇我駅間は川崎製鉄(現・JFEスチール東日本製鉄所千葉地区)の専用線だった線路を借りて運用された。というのも、当初はまだ都川信号場~(湾岸道路、国道357号線を跨ぐ部分)~蘇我駅間の現在の京葉線の高架が未完成だった為。千葉貨物ターミナル駅から南下して来た京葉線の高架は、湾岸道路を跨ぐ手前で途切れていた。都川信号場は、件の京葉線の高架が完成するまでの間、その途切れた高架上から地上の専用線区間へと線路を分岐させる為のもので、高架上の途切れる手前、千葉市街を流れる都川の河口付近の位置にあった。しかし、1986年にようやく途切れていた高架が蘇我駅まで到達した為、都川信号場と専用線区間は廃止され、現在の京葉線高架へと切り替わった。 1970年代の航空写真には、完成間近と思われる千葉貨物ターミナル駅と、そこから南東へ伸びる高架、そしてその高架が都川の河口を過ぎた辺り(湾岸道路を跨ぐ手前付近)で途切れ、そこから先は地上の川崎製鉄専用線へと連絡線が下り、繋がっている様子が写っている。専用線区間の廃線跡は、現在も蘇我駅北西付近に不自然にカーブした小道として残っている。専用線区間へ向けて高架を下った連絡線の分岐部分も、寒川付近の京葉線の高架の幅が海側へ不自然に広くなった構造として残っている。ただ、専用線区間の大半は、後に製鉄所の敷地を削って行われた再開発によってアリオ蘇我の敷地となり、潰されている。 そして、当初は稲毛海岸・西船橋方面の線路が未開通だった為、千葉貨物ターミナル駅は蘇我側からしか入線できず、線路は千葉貨物ターミナル駅の北西端で行き止まりだった様子も写真で見られる。その頃、いずれ貨物線として開通予定だった西船橋側の線路からも千葉貨物ターミナル駅へと入れるように、上記の立体交差構造を予め造っておいた(この構造は幸町第一中学校の南西付近にあり、その高架の形は明らかに立体交差を意図している)。しかし、西船橋側の線路が完成する前に京葉線の旅客化・千葉貨物ターミナル駅の衰退(後述)が決定的となっていた為、遂にこの構造が使われる事は無かった。 千葉貨物ターミナル駅からは、周辺の工場への引込線も幾つか分岐していた。千葉貨物ターミナル駅自体は国鉄(末期はJR東日本とJR貨物)が、引込線は主に京葉臨海鉄道が運営した。引込線には食品北線食品南線(併せて「食品線」)があり、これらはいずれも千葉貨物ターミナル駅の南東端付近から南西の海へ向けて伸びていた。また、千葉貨物ターミナル駅の北西端から海方向へ分岐する「新港線」、千葉中央ふ頭(現在の千葉ポートパークの隣にある埠頭)方面への「ふ頭線」というのも計画され、用地確保も一部進んだが、これらは未成線に終わったという。上記の1970年代の航空写真には、千葉貨物ターミナル駅の南東端から分岐する食品北線・食品南線の他、北西端から緩やかにカーブする新港線用地(と思われるもの)も写っている。更に、旧・千葉貨物ターミナル駅~現・千葉みなと駅間の京葉線の高架西側には不自然に細長い駐車場用地が伸びているが、そこにもかつて地上の貨物線があった。ふ頭方面を目指して途中まで開通していたのかもしれない。駐車場には今も、放置された鉄道用信号が残る。 1979年くらいまでは順調に貨物を扱った千葉貨物ターミナル駅だったが、その後は貨物輸送のトラックへの移行に加え、千葉特有の過激な労働運動(動労千葉)の混乱もあって国鉄も周辺の工場も不安定化し、貨物が激減したという。元々千葉の埋立地は工場中心となる計画だったらしいが、これが団地・宅地・商業地・公園などが中心の計画へ変わった事で、想定よりも工場貨物が少なくなった事も響いた。上記の未成線が未成となった原因も、この風潮が関わっていると思われる。1989年には千葉貨物ターミナル駅から貨物がほぼ無くなり、1994年には食品線が廃止、その後もJRが細々と臨時の貨物のみ扱っていたが、やはり貨物は来ず、貨物駅構内は雑草にまみれた。そして遂に、2000年4月に千葉貨物ターミナル駅は廃止された。 しかし、これと入れ替わるように、千葉貨物ターミナル駅廃止数ヶ月後の2000年12月から、京葉線の西船橋~蘇我駅間を貨物列車が走る事になった。これは、従来は新金貨物線・新小岩操駅・総武本線経由で走っていた千葉方面の貨物列車が、京葉線経由へと変更された事によるもの。これにより、再びここを貨物列車が通る事になった為、この為に旧・千葉貨物ターミナル駅跡地を貨物用の信号場として改築・転用する工事が行われた。この時、跡地のうち転用されなかった部分の敷地は、再開発に回された。こうして当信号場が生まれ、今に至る。 ※かつて岐阜県には「港駅」という駅があったが、当信号場とは無関係な上、「新港」で1つの地名の為、新抜き駅でもない。また、かつて山口県には同名の信号場もあったが、そことも無関係。いずれも当信号場とは時代が異なり、同時には存在していない。

▼関連写真 

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橋から新港信号場を見下ろす(東京方向)。「新港」は付近の地名で、近くの清掃工場の名前も「新港クリーン・エネルギーセンター」(小学時代に工場見学に行った)。写真の撮影者目掛けてやって来たのは、京葉線の蘇我行きのE233系5000番台で、下り線を走っている。【撮影日:2016/09/17】 写真左が海側で、右が内陸側。左(海側)から順に、上り線・待避線・下り線と3本の線路が並ぶ。よく見ると、内陸側には運河がある。運河と木々を挟んで更に内陸側には、千葉幸町団地(ちばさいわいちょうだんち)というマンモス団地が広がっている。団地の建物は、この写真の右端に写っている。一方、写真左側(海側)の駐車場や白い検診車の沢山停まっているスペース、奥の巨大な倉庫(洋服の○山)の建つ敷地などが、千葉貨物ターミナル駅のかつての敷地。

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反対側(蘇我・千葉みなと方向)。ここは新港信号場の南端で、上下線が離れている。写真下部では、離れた上下線の間を通る待避線が、下り線へと合流している。付近の道路の形状から、かつての千葉貨物ターミナル駅の南端の名残も感じられる。写真で、線路の右側の建物が気持ち斜め方向に建っているが、これもその名残。非常に分かりにくいが、斜めに建つ建物の奥には千葉港変電所の建物も写っており、これも斜めに建っている。変電所の建物は千葉貨物ターミナル駅の現役当時からあり、そのすぐ西には食品北線の廃線跡の敷地も残る。食品北線の分岐部は、この辺りにあった。【撮影日:2016/09/17】 また、この写真付近の線路は地上を走っているが、その更に奥の千葉みなと駅側や、反対側の稲毛海岸駅側は両方とも高架になっており、線路はわざわざここで一旦地上へ下りている事になる。これは、かつてこの付近に千葉貨物ターミナル駅の入口があった名残。千葉貨物ターミナル駅の広大な構内は地上に広がっていたため、京葉線本体から構内へと入るための分岐部も地上だった。YouTubeには、まさにこの分岐部から千葉貨物ターミナル駅へと入線する当時の貨物列車の貴重な動画がある。動画内では、蘇我方面から北上して来た貨物列車が進行方向左側へ曲がり、左奥の千葉貨物ターミナル駅構内へと入線するシーンが写っている(この写真の方向で言うと、写真奥側からやって来た貨物列車が写真手前右側へと曲がり、右後ろ方向の構内へと入る)。動画内で入線後に貨物列車がくぐる陸橋こそが、当サイトのこの写真の撮影者が登った橋。つまり、撮影者が立っているこの橋は、千葉貨物ターミナル駅の現役当時から架かっている。 ※ちなみに、動画では陸橋をくぐる直前で、当時の京葉線の下り旅客列車とすれ違っている。その車体は青く、形式も古い。これはスカイブルーの103系で、当時を知る人には懐かしいだろう。当時の京葉線のイメージカラー(ラインカラー)は今のようなワインレッド(赤系)ではなく、スカイブルー(青系)だったという。編成も短く、当時はたったの6両編成だった。 ※千葉貨物ターミナル駅の入口はこの南側のみで、北側には無かった。北側の入口になるはずだった構造物が、上記備考で触れた立体交差構造にあたる。また当時、現在の当信号場の待避線が、京葉線本体の上り線だった。つまり、旧・上り線を当信号場の待避線として転用した。一方、より海側を走る現・上り線の線路は、かつて千葉貨物ターミナル駅の構内だった場所にある。

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撮影地点の橋。写真を見る限り、付近の海側一帯は工場地帯。これは「千葉食品コンビナート」と呼ばれる工業団地で、食品関連の工場が多い。上記の食品北線・食品南線という貨物線名も、それを示している。サイロも多く見かける上、写真正面奥の工場も製糖工場。この工業団地の中には山崎製パンの工場もあり、風に乗って内陸の住宅地にまでパンのにおいが飛んでくる事も多く、とてもイイニオイ。この日もそうだった。かつては、この工場群の貨物が千葉貨物ターミナル駅へと集結していた。【撮影日:2016/09/17】 また、千葉食品コンビナートは主にこの写真の手前左側を中心に広がるが、工場地帯はここだけでなく、右側及び奥側(海側)にも広がる。例えば、前述の清掃工場や、木材・セメント・石油関連の工場もある。こうした、千葉食品コンビナート以外の工場の貨物も運ぶために上記の新港線が計画されたと思われるが、新港線は未成線に終わっている。新港線のために確保されたと思われるカーブした敷地は、現在も業務スーパー新港店の裏の奇妙な敷地境界として残る。 ところで、海側の工場地帯のうち、埋立地が南へ尖って突き出した部分に石油関連の工場があるが、これは成田空港へ飛行機の燃料を運ぶための重要な拠点となっている。というのも、タンカーでそこへ届けられた石油がそこで貯蔵された後、そこから地下のパイプラインを通ってはるばる成田空港まで送られている。成田空港(当初は新東京国際空港)は、その建設に反対する地元民との激しい闘争(いわゆる成田闘争、三里塚闘争とも)が有名だが、一連の闘争の中で、反対派によってこのパイプラインを狙った攻撃も行われた事があるという(1979年)。それを受けてか、そこには異様な形の信号所(千葉港信号所)が建てられたり、多くの警備員が派遣されたりした。成田闘争は1978年の空港開港前後のみならず、2023年現在でも未だに燻っており、現在も警戒されている。ただ、千葉港信号所は2012年に海を挟んだ別の場所(千葉中央ふ頭側)へ移転し、異様な形の建物は廃墟になった後に解体された。

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旧千葉貨物ターミナル駅の敷地内再開発物件の中で、おそらく一番巨大なのが、写真のミハマニューポートリゾート。千葉貨物ターミナル駅廃止・新港信号場開設の翌年、2001年に開業したショッピング施設。スーパーやその他大型店舗・ファミレスなどが並び、撮影者も休日稀に行く。写真奥には、さっきの洋服の青○の倉庫が見える。その倉庫とこのミハマニューポートリゾートの間には、スーパーのベルクスも挟まっている(※ベルクスは、ミハマニューポートリゾートには含まれない)。一方、反対側(写真の向きから見て背中側)には勝又自動車学校もあり、その手前までが旧敷地だった。【撮影日:2016/09/17】 追記: ミハマニューポートリゾートが2021年12月を最後に閉店する事が突然発表された。発表は前月の11月で、寝耳に水とはまさにこれ。諸行無常すぎるってか地元民だけどそんなの聞いてないよー

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