▼この駅について
駅名 | 読み | 新抜き駅 | 立地*立地名クリックで、 その立地を検索 |
新鎌ヶ谷 | しんかまがや | 鎌ヶ谷 | 千葉県 |
開業*開業年クリックで、 同年開業の駅を検索 | 廃止 |
1991年 | - - - - 年 |
▼この駅を走る路線
運営会社*虫眼鏡クリックで、 その会社を検索 | 路線*路線名クリックで、 その路線を検索 | 種別*種別名クリックで、 その種別を検索 | |
京成電鉄 | ■成田空港線(成田スカイアクセス線)(KS) | 普通鉄道 | |
北総鉄道 | ■北総線(HS) | 普通鉄道 | |
新京成電鉄 | ■新京成線(SL) | 普通鉄道 | |
東武鉄道 | ■野田線(東武アーバンパークライン)(TD) | 普通鉄道 | |
京成電鉄 | [直通]■押上線(KS) | 普通鉄道 | |
京成電鉄 | [直通]■本線(KS) | 普通鉄道 | |
京浜急行電鉄 | [直通]■本線(KK) | 普通鉄道 | |
東京都交通局 | [直通]■都営地下鉄浅草線(A) | 地下鉄 |
▼備考
▼関連写真
新鎌ヶ谷駅入口。写真の入口は、駅の北東側にある。この入口は東武線の入口で、北総線・新京成線の入口はもっと奥にあるが、一応全ての路線に乗るのに写真の場所を通るので、ここが当駅のメインの出入り口と見なしていいだろう【撮影日:2016/09/25】
当駅の、東武野田線の駅名標(上写真)とホーム(下写真)。駅番号TD30。ホームの真上は駅舎と北総線・新京成線の線路なので、暗い。【撮影日:2016/09/25】 1923年に現・東武線が、1955年に新京成線の線路がここを通ったが、当時はまだここに駅は無く、周辺も田舎だった。当駅の各線ホームの設置経緯は、下記のように複雑な歴史を辿った。 当駅設置の一番最初のきっかけは、1979年に北総線がここを通った時。この時点でも依然として当駅は無かったが、現在の北総線の高架ホームの構造物は予め建設され、将来当駅となる事を見越した信号場となっていた。1980年代の航空写真には、まだ駅としては未使用なものの予め作られていたその構造物が写っている。一方、新京成線・東武線側には何ら構造物すら無く、駅は皆無だった。 北総線は、1979年に北初富~(当駅の場所)~小室駅間が第1期区間として開通したのが最初。現在の北総線には北初富駅は無いが、驚くべき事に、当初の北総線は北初富駅から連絡線経由で東へ分岐し、そこから小室方面へ伸びるものだった。というのも、当時は当駅ホームとなる予定の構造物こそあったものの、まだ当駅は無く、新京成線側にも当駅は無かったため、新京成線と北総線の接続は北初富駅が担当していたため。2線は北初富駅を境に相互直通運転をし、松戸~北初富~小室間を乗り換え無しで移動できた。まだ都心方面への延伸を果たせていなかった北総線は、延伸までの間暫定的に、新京成線を活かして都心方面への経路を確保していたのだ。※その間、北総線は路線名が「北総・公団線」へと改称されている。路線名が再び「北総線」へと戻るのは、2004年。また、現在の北初富駅は最近の高架化で国道の東側に移転しているが、当時は国道の西側にあった。 1991年に北総・公団線が京成高砂駅まで伸び、やっとこさ都心方面延伸を果たす(第2期)と、既設の構造物が遂に当駅として使用開始され、この時当駅が誕生した。この時点では北総・公団線ホームのみだったが、翌年の1992年には新京成線側にもホームが追加され、2線の乗換駅機能は北初富駅から当駅へと変更、北総・公団線内から北初富駅は消えた。同時に、新京成線~北総・公団線間の直通は終わった。 しかし、それでもまだ東武線には当駅のホームは無く、東武線は付近をスルーしていた。北総~東武間の乗り換えははるばる南へ離れた新抜き駅の鎌ヶ谷駅まで行かねばならず、新京成~東武間の乗り換えも地味に離れた初富~鎌ヶ谷駅間で、非常に不便だった。しかも、まだ当駅周辺は田舎だった(1990年頃の航空写真)。この頃地元では、東武線側にも当駅ホームを設置するよう要望が強まり、それに併せて周辺一帯の新たな街づくり開発も計画されるようになった。しかし、長年の要望にも拘らず東武は当駅へのホーム設置を拒み続けた。一応東武側も1989年に、ここからすぐ北に「新鎌ヶ谷信号場」を設置していたが、それは新鎌ヶ谷信号場~六実駅間を複線化した時の複線と単線の境目の設備でしかなく、あくまで駅へと昇格する前提のものではなかった。 しかし、年々強まる駅設置要望に、遂に東武は折れた。東武の代わりに地元が駅設置費用を負担するという条件を東武が受け入れ、決着。こうして、東武線の新鎌ヶ谷駅は1999年になってようやく遅れて開業。この時新鎌ヶ谷信号場は「駅」として昇格・現在の位置へ移転され、この写真のホームが遂に開業した。
当駅東武線ホームに到着する、柏行き(ぶれた)。この車両は60000系と言うらしい。60000系は、2013年から走り始めた新型車両。ところで、東武野田線ホームには、ピアノのような結構豪華な駅メロが流れる。これは、北海道日本ハムファイターズの二軍の本拠地が鎌ケ谷市にあることから、「ファイターズ讃歌」を駅メロにしたものだという。【撮影日:2016/09/25】
同じく東武線ホームに到着する、船橋行き(右)。この車両は、10030系という。左のはさっきの60000系。この2つはともに、2013年から東武野田線を走り始めた(10030系は東武のよその路線から持って来たという)。それまでの野田線は8000系が主力だったが、この2つが来たことで減ってきている。ちなみに、60000系は側面の電光掲示板に「2号車」とか号車番号が表示される。珍しいと思った【撮影日:2016/09/25】
新京成線ホームの駅名標。ピンクと白が基準の新しいデザイン。ところで、東武野田線の駅名標には「新鎌ケ谷」、こっちには「新鎌ヶ谷」と書いてある。「ヶ」の大きさが違い、表記にぶれがある。駅名としては小さい方の「新鎌ヶ谷駅」が正式、立地する市名としては大きい方の「鎌ケ谷市」が正式だといい、どっちが正しいとは一概に言えなくなっている。しかも、東武の駅名標は駅名を大きく書いているのに肝心の市名を「鎌ヶ谷市」と小さく書いてしまっているため、大きい方が正式という市の意向に反しており、ますます混乱が見られる。結局、どちらかに決めようとしない方が正解なのかもしれない。ただ、駅名に限れば、全国的な傾向を見るとJRの駅名は「ケ」を大きく、私鉄の駅名は「ヶ」を小さく書くパターンが多い気がする。【撮影日:2016/09/25】
北総線の駅舎。高架駅になっている。ここはメインの出入り口から奥に入った所で、新京成線と北総線の駅の入口となっている。【撮影日:2016/09/25】
高架化工事区間は、初富~当駅~北初富の3駅の区間に及ぶ。この写真は、初富駅の南にある、新線と仮線の分岐地点。青白く真新しいコンクリート高架と線路が見える。そして、現行の仮線はその左を迂回するように走る。この写真では、分岐地点の高架はまだ下り線しか出来ていないようだ。上記でも述べたが、高架化は上下線共に2019年12月に完了し、既に新線に切り替わっている(写真は繋がる前のもの)。【撮影日:2016/09/25】 ※ところで、「初富」(はつとみ)という地名の「初」には、数字の「1」の意味合いがあるという。江戸時代以前は不毛の地として農業には使われず、「牧」(まき)という放牧などの用途にしか活かせなかった下総台地(北総台地とも)を、明治時代初期に農地などとして開拓していった。この時、開拓していった順番と縁起の良い文字を組み合わせて、地名が付けられた。初富、二和(ふたわ)、三咲(みさき)、豊四季(とよしき)、五香(ごこう)、六実(むつみ)、七栄(ななえ)、八街(やちまた)、九美上(くみあげ)、十倉(とくら)、十余一(とよいち、かつてはとよひと)、十余二(とよふた)、十余三(とよみ)の13があるが、その幾つかは現代もよく耳にする。千葉県が落花生県と呼ばれる所以となった落花生の一大産地八街や、新京成線・東武野田線の駅名、千葉ニュータウンの公園名(十余一公園)、某ハセカ○…にも見られる。初富は、この一大事業の始まりの地となった。かつて不毛の地だった千葉県が現在全国有数の野菜の生産地となっている事を考えると、この事業は一定の成功を収めている。落花生は不毛の地でもよく育つ作物で、それをセレクトした八街も成功している。 ※四街道や八日市場など、これとは無関係な地名に注意。
初富駅から新鎌ヶ谷駅に接近する時の、新京成線の急カーブ。ここのカーブの激しさは、新津田沼~京成津田沼間に劣らない。そして、カーブに沿うように右に続いているのが、建設中の高架。 このカーブを曲がりきると、かつて新京成線と北総線が直通(上記備考参照)していた名残である、北総線との並走直線区間が始まる。但し、直通のために新京成線の線路の向きを後から無理やりカーブを駆使して北総線に合わせたという訳ではなく、たまたま初めから直通にぴったりの向きの線路が新京成線側に存在し、後から北総線がそれに合わせて敷かれたものと思われる。証拠として、現在の並走直線区間の場所には、新京成線の前身である鉄道連隊の時代から既に線路がある。【撮影日:2016/09/25】