新がつく駅地図手帖

新検見川駅


最終更新: 2023/07/02

▼この駅について 

駅名読み新抜き駅
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新検見川しんけみがわ検見川千葉県
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廃止
1951年- - - - 年

▼この駅を走る路線 

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JR東日本総武本線(中央・総武緩行線)(JB)普通鉄道

▼備考 

駅番号JB36の、総武本線の駅。但し、当駅には総武本線のうち、各駅停車の「中央・総武緩行線」(中央・総武線)のみが停まる。総武快速線はホームが無いので、当駅の脇を通過する。当駅は、地元では「しんけみ」とも呼ばれている。厳密には当駅周辺の地区名は「花園」(はなぞの、当駅の住所も「南花園」)であり、周辺の店舗は「花園店」、学校も「花園小学校」などを名乗っているが、その詳細は後述。 一方、新抜き駅の「検見川駅」は京成千葉線の駅で、ここから西へやや歩いた所にある。その近くには、検見川神社などがある。本来はそここそが検見川の中心であり、当駅周辺(花園地区)にはかつて何も無かった。本来の検見川(京成の検見川駅周辺)は古くから房総往還(千葉街道)の宿場町・検見川神社の門前町・漁業の港町などとして街が出来ており、江戸時代以前には既に「気見川」「毛見川」「華見川」等の表記が見られた(これが現在付近を流れる花見川(はなみがわ)という川の名前の表記に転じたのではないか、との説があるらしい)。 ただ、それ程の歴史があるにも関わらず、総武本線の検見川地区(花園地区含む)の駅は開業が遅れた過去がある。沿線では幕張然り稲毛然り、基本的には総武本線側の駅の方が先にあり、後から競合私鉄の京成側が「京成○○駅」を開業させたパターンが多い(京成線の開通は1921年だが、総武本線の前身である総武鉄道の歴史は1894年にまで遡り、より古いため)。しかし、検見川周辺だけは例外で、先に京成側が戦前に検見川駅を開業させ、当駅の開業は戦後にまで遅れた。その結果、当駅の方が「新」を付けるに至った。つまり、総武本線が長らく検見川を素通りし、京成の駅が検見川地区唯一の駅だった時代があった。 ※元々は総武本線側にも検見川駅を設置する計画があったが、総武鉄道の開通時(1894年)に駅設置に対する反対運動が起こってしまい、頓挫したという。当初はより海に近い側に駅を造ろうとしたが、鉄道の振動が漁業に悪影響を与えるとして線路計画を内陸側へ移したが、今度は検見川神社の裏側に駅を造る事への反対があり、結局素通りとなった。当時は今のような埋立地(海浜ニュータウン)は無く、海が近くに迫っており、花見川の河口も検見川にあった。検見川が漁業の町だった事からもそれは分かる。 しかしその後時代が進んで鉄道の重要性が分かってくるにつれ、検見川地区の住民は京成の駅だけでなく国鉄駅の重要性も知るようになり、戦後に当駅を誘致するに至った。当駅の場所としては、本来の検見川から東へ逸れた花園地区が選ばれたが、その詳細理由は不明(恐らく前述の神社の件と、後述の花園の宅地が関わっている可能性はある)。こうして当駅は1951年に後から開業、検見川地区初の国鉄駅となった。 時代は前後するが、本来の検見川に対して元々何も無かった花園地区には、その北部一帯に東京帝国大学(いわゆる帝大、現・東大)の検見川総合運動場が1930年代に造成された(運動場は今もあり、東大の検見川セミナーハウスや、「東大グラウンド通り」という道路もある)。それに伴ってか、何も無かった周辺の花園台地の開発も始まり、花園地区南部一帯にも宅地が造成された(この宅地は、当駅開業前の1947年頃の航空写真にも既に写っている。当駅の場所から見ると北側一帯に既に家が並び始めている)。1938年には「花園町」の住所も誕生。こうした経緯から、当駅開業の1951年には既に人が多く住んでおり、駅設置場所としてここが選ばれた可能性がある。後の住居表示では、現在の「花園」「南花園」の住所も誕生した。 ※ところで、戦時中及び戦後暫くの間、燃料不足解消のため検見川総合運動場は泥炭採掘場となっていたが、その採掘中に縄文時代の遺跡が発見され、2000年以上前(少なくとも弥生時代以前)の蓮の種も発掘された。蓮の種は運動場隣接の東大緑地植物実験所へ持ち込まれ、一度埋もれた古代の種子を発芽させる試みが大賀一郎氏によって行われた。そして、偶然にも当駅開業と同年の1951年、その発芽に成功した。現代へ蘇ったその奇跡の蓮は大賀ハスと命名され、現在も千葉市の花として地元で親しまれている(千葉市のキャラちはなちゃんも大賀ハス由来)。当駅北西の方には「大賀ハス通り」という道路もある。 ※当駅から見て南南東の方には、検見川無線送信所(検見川送信所)と呼ばれる古い施設の遺構がある。この施設は1926~1979年の間稼働し、日本初の国際放送を担当したなど歴史的価値の高いものだったが、廃止後は放置されてしまい、今は有志団体が保存を呼び掛けている。しかし、2023年になっても未だに保存活用されておらず、知名度が低いため住民から心霊廃墟扱いされるなどしてしまった。今後のPRにかかっている。 ※京葉線の駅の仮称は「新稲毛駅」など内陸部の駅名に「新」を付けたものが多かったが、検見川浜駅だけは、当駅が既にあった為か「検見川ニュータウン駅」の仮称だった。もし当駅が「検見川駅」、京成の駅が「京成検見川駅」を名乗っていたら、「新検見川駅」は検見川浜駅の仮称だったかもしれない。 ※JR東日本は、2016年8月に駅番号を導入した。また、総武本線には他に新小岩駅もある。 ※ちなみに総武本線では、2018年から、自転車を持ち込める「B.B.BASE」という観光列車が走り始めた。主に週末に走る。平日は、近くの幕張車両センター(ここから2駅北西の幕張本郷駅辺り)に停まっているのがよく見られる。乗車できるのは両国駅・津田沼駅・千葉駅で、そこから各目的地(総武本線は銚子・成田線は佐原・内房線は館山・外房線は勝浦/安房鴨川方面)へ向かうツアーに使われる。当駅からは乗れないが、通過する様子がよく見える。

▼関連写真 

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当駅ホームと駅名標。奥を走るのは、当駅を通過する回送列車の209系(多分千葉駅以南の外房線か内房線か総武本線・成田線の車両209系2000番台か2100番台が、幕張車両センターに向かうところ)。この駅では、快速や回送・貨物列車などの通過がよく見られる。【撮影日:2016/08/24】

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駅舎と、駅前ロータリー(南口、海側)。周辺は宅地が多いが、そこそこ店や塾もある。パン屋やスーパーもあった。【撮影日:2016/08/24】

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南口入口。改札が2階にある橋上駅舎なので、入口が階段になり、エレベーターも設置されている。

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北口(内陸側)。北口前にはロータリーが見当たらず、建物が迫っていて道路も狭い。しかし、北口バスロータリーが無いわけではなく、少し北に離れた所にある(上の地図だと、「千葉銀行新検見川支店」と「千葉花園郵便局」の間辺りにある)。離れてるので、ラッシュ時には駅からそこまでの道に、北口バス利用者がぞろぞろ並ぶ光景が見られる。【撮影日:2016/08/24】 ※追記: 写真の場所は、当初は建物が迫っていて狭かったが、後に北口目の前の古い店舗建築が解体され、2021年現在は広さを感じさせるタイル張りのスペースを設けたファミマが建っている。写真の右上に写っている店舗の軒先テントは、この解体で無くなっている。ファミマは元々隣の建物内にあった狭小店舗だった(更に前はサンクスだった)が、この解体で移転し、広い店舗に生まれ変わった。

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新検見川駅を通過する、新小岩・東京方面の快速。総武快速のこの車両は、E217系という。途中には2両分、2階建てのグリーン車が付いている。結構近距離を通過していった【撮影日:2016/12/15】

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当駅に来る中央・総武線の主な車両は、写真のような黄色い電車で、E231系という。総武線のはその0番台で、E231系の中では最も早くデビューしたという(2000年)。顔には「6DOORS」と書かれたステッカーが付いていて、10両編成中、5号車が6ドアの車両になっている。※撮影は船橋駅。また、E231系0番台は、色違いだが常磐快速線成田線我孫子支線でも使われている【撮影日:2016/12/15】 追記: このE231系0番台は2020年現在、元山手線の500番台に押されるようにして中央・総武線を引退したものが多い。引退車両はその後、常磐快速線や武蔵野線へ転属したようだ。また、八高線/川越線へ転属したものもあるが、川越線へ行ったE231系0番台は、4両編成化やドアボタンの設置など大幅な改造工事を受けたため、3000番台へと改番されている。

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E231系の、6ドア車両。中央・総武線は、不名誉にも日本一混雑率が高くなったこともあり、ドアの多い車両の投入で混雑対策をとった。ラッシュ時は、中の椅子が折りたたまれて座れず、通勤客を最大限収容できるようになる。満員で中の人が倒れないよう、通路真ん中には手すりのポールが立っている(ポールは写真にも写っている)。※撮影は船橋駅【撮影日:2016/12/15】 追記: このような変則的なドア数・ドア配置の車両はホームドア設置の障壁となるため、ホームドアの設置が望まれる時代が来ると6ドア車は徐々に廃止されていき、2020年3月になると中央・総武線からも6ドア車は姿を消した。その後、中央・総武線でも実際にホームドア設置工事が始まった。6ドア車や5ドア車などといった多扉車は他路線や私鉄でも導入例があり(田園都市線など)、5ドアの京阪5000系がその始まりだったという。しかし、それらは既に同様の理由で廃止されているものが殆どで、2021年には京阪5000系も引退

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ごくまれに、元々緑色の山手線の車両だったのが黄色く塗り替えられて中央・総武線に転属して来たやつに出会うことがある。これはE231系500番台と言い、前述の0番台とは顔が違うのが分かる(0番台は周りが銀・ライト部分が黒だが、これは写真のように、やたら白い)。かなりレアなのでこれに出会えたら運がいいと思う(撮影者は2時間ホームに張り込んでやっと出会ったが日が暮れて暗くなり写真がぶれる始末)。※撮影は津田沼駅。【撮影日:2016/12/15】 追記: 転属車は、撮影当時はとてもレアだったが、2018年にもなると、出会える率はかなり上がった。2020年1月には山手線からの転属が全て終わり、2020年現在の中央・総武線ではむしろ転属車の方が圧倒的に多いくらいになり、レアどころか主力車両になっている。逆に、0番台の方がレアになった。時の流れは恐ろしい。

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元山手線のは、ドアの上にトレインチャンネルという液晶画面が付いている(上写真)。さすが、首都を走っていただけある。中央・総武線に元からいる0番台にはそんな大層なものは無く、下写真のような電光掲示板があるのみ。【撮影日:2016/12/15】

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中央・総武線には、前述のE231系以外にも、更に別のが混じって走っている。この写真の車両で、209系500番台という。E231系0番台と瓜二つだが、「6DOORS」のステッカーが無く、6ドア車両が無い。また、E231系0番台は顔の周りが銀色だが、これは白い(撮影は東船橋駅)。209系は、国鉄時代から走り老朽化していた103系に代わる車両として登場し、後のE231系・E233などのベースにもなり、他社にも影響を与え、車両史に残る革新的なものだった。しかし、中央・総武線では導入のすぐ後にE231系が登場したので、主力にはならなかったという。それでも、今もE231系に混じって走っている。【撮影日:2016/12/15】 この車両は三菱GTOと呼ばれるインバータを搭載していて、とてもかっこいい音を奏でて発車するが、2021年現在では機器更新によりもう聴く事ができないようだ。個人的に一番好きな音なので悲しい。 ちなみに、209系500番台は色違いで他の路線にもいる(例えば武蔵野線)。 ※同じ209系でも、この500番台は他の209系よりも車体幅が広く、見た目が違う。幅を広げた車両の事を「拡幅車体」と言うが、その広げ方は単純に全体の横幅を広げたわけではなく、車体側面(ドアが並んでいる側)の壁を膨らませる事によって広げている。よく見ると、その膨らみによってドアの下部などが曲がっている事が分かる。つまり、床の幅をあまり広げられない代わりに、せめて中間の高さで出来る限り幅を広げる事で車内空間を広くしている。床の幅まで広げてしまうと、車両のフチがホームに接触するなどして危険なため、車両限界と呼ばれる制限が設けてある。その制限を守りつつ幅を広げる工夫をした結果が、この膨らみ。一方、膨らみを持たない(拡幅ではない)他の209系の車体側面の壁は真っ直ぐなため、拡幅車体に対して「ストレート車体」と呼ばれる事もある。

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